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第2話 既往記録抄〔原資料転載〕

 最初の議題は案件の概要説明だった。千葉県北東部、骸ケ谷地区における埋蔵文化財の調査計画。所在地、調査範囲、調査期間、調査体制、予算規模——中川が順番に資料を読み上げた。八人は配布資料を見ながら、内容を確認した。


 約二十分の説明が終わった。「次に、既往記録抄の配布について、廣澤校閲よりお話しいただきます」と中川が言った。廣澤が顔を上げた。顔を上げた、というのが、確かなことかどうか、その場にいた者の誰も、後で確認できなかった。廣澤の顎の角度がわずかに上がった——という記憶を持つ者もいたし、廣澤の表情がこちらを向いた——という記憶を持つ者もいた。しかし、廣澤が「顔を上げた」という具体的な動作の瞬間を、誰も視認していなかった。


 廣澤が席を立った。立った、というのも、後から考えると、確認できなかった。八人のうち何人かは廣澤が立っている姿を見た。しかし「立ち上がった瞬間」を見た者は、いなかった。気がついたら、廣澤が立っていた。


 廣澤がロの字の机の内側を歩き始めた。一人ずつ、出席者の前で立ち止まった。立ち止まった廣澤の手から、各人に薄い冊子が手渡された。


 既往記録抄。


 冊子は表紙に和紙のような質感の紙が使われていた。中身は和文タイプ印刷で組まれていた。約四十ページ。表題に「骸ケ谷 既往記録抄」と縦書きで書かれていた。著者は廣澤文彦。


 木口は冊子を受け取った。表紙に触れた指先に、紙の繊維のわずかな起伏が感じられた。古い紙特有の、乾いた感触だった。表紙の縁が指の腹にごく微かな摩擦を残した。


 冊子からは、古紙と墨の入り混じった、わずかに酸の混じった匂いがした。和文タイプの活字の油も、その匂いに重なっていた。会議室の蛍光灯の下で、冊子は薄く、しかし手の中で相応の重みを持っていた。冊子を受け取った瞬間、木口は廣澤の手を見た。


 廣澤の手はしわが少なかった。皮膚の質感が年齢に対して若かった。爪は短く整っていた。手の動かし方は丁寧で迷いがなかった。


 木口の隣で、野田も冊子を受け取った。野田が受け取る瞬間、廣澤の手が机の上をかすめた。机の表面に、廣澤の手の影が落ちていない——ように見えた。野田は廣澤の手の影が机に落ちるはずだ、と思っていた。蛍光灯の角度から考えて、廣澤の手の真下に机の表面がある。手と机の間には、影が出来るはずだった。


 しかし、その影は野田の目に届かなかった。後から考えても、明確に「あった」「なかった」と言い切れなかった。蛍光灯の光は均一で、影は元々薄い。手と机の距離が近いと影は限りなく薄くなる。だから「なかった」と判断するのは、難しい。


 しかし、「あった」とも、はっきりとは言えなかった。野田はその「気がした」を、手帳に書かなかった。書く理由が、その時点では、なかった。左手薬指の爪に、冊子の和紙の繊維が薄く転写されたような錯覚があったが、野田はその感触を無視した。廣澤は八人全員に冊子を配り終えた。


 最後に、自分の席に戻った。席に戻る動作も、誰も「動作の瞬間」を見ていなかった。気がついたら、廣澤が自分の席に座っていた。「既往記録抄は現場の前提情報としてご一読ください」と廣澤は言った。


 「内容についてのご質問は、随時、お受けします」廣澤の声は低かったか、静かだったか——後から振り返っても、その場の誰の中にも、明確な印象は残っていなかった。声を聞いた直後に、その声の質感を整理する余裕が誰の中にもなかった。会議は次の議題に進んだ。冊子を受け取った者のうち、誰も、その場で「先生」と呼ばなかった。


 「廣澤先生」「廣澤校閲」——どの敬称も、その場では使われなかった。使うべき敬称がその瞬間、どの参加者にも、思い浮かばなかった。

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