第53話 書かない男〔野田の野帳〕
塚崎良太の野帳を、野田は一度だけまとめて見たことがある。九月の初め、野帳の月次写しを整理室に回す作業の中で、四人分の野帳が野田の机の上に集まった。木口の野帳は七月二十二日で止まっている。三宅の野帳は細かい観察と時々の感想で埋まっている。野田自身の野帳は——書いた覚えのない一行を含んでいる。
塚崎の野帳は薄かった。
数字だけが書かれていた。測点番号、深度、遺物番号、時刻。感想が一行もなかった。「感じた」も「気がした」も、なかった。天候欄は記号だけだった。晴は丸、雨は縦線。文字ですら、なかった。
六月七日から九月まで、三か月分。塚崎の野帳のどのページにも、廣澤の赤い波線は入っていなかった。入る場所がなかった。削ぐべき主観が最初から書かれていなかった。
九月の半ば、現場の撤収作業の合間に野田は塚崎に聞いた。
「塚崎さんは、感想、書かないんですか」
「感想って、業務に要ります?」
塚崎の答えは速かった。考えてから答えた速さではなかった。ずっと前から、用意されていた速さだった。
「要らない、ですけど」と野田は言った。
「じゃあ、書かないです」
それだけだった。塚崎は資材の梱包に戻った。梱包する手が確かだった。迷いのない手だった。
塚崎は九月の末、任期満了で現場を離れた。退職ではない。所在不明でもない。任期が満了して、次の現場に移った。送別の挨拶があった。「お世話になりました」と塚崎は言った。声に出して、言った。言った瞬間を、全員が見ていた。
誰も消えない離任だった。手続きは通常だった。書類は人事課を経由した。差出人欄は埋まっていた。
その通常さを、野田はしばらく考えた。
来る者は記す。記す者は留まらず。塚崎は来た。しかし、記さなかった。数字は残したが、塚崎は数字の中にいなかった。
書かない者は呼ばれないのか。
その仮説を、野田は野帳に書こうとしてペンを止めた。書けば、この仮説も記録になる。記録になれば——。
書かなかった。
現場の出口で、塚崎が振り返った。振り返って、野田に短く言った。
「野田さん。書きすぎない方がいいですよ」
どういう意味ですか、と聞き返す前に塚崎は車に乗った。車は通常の速度で通常の道を走り去った。
知っていて、書かなかったのか。知らないままに、書かなかったのか。
判別できなかった。判別できないことを、野田は書かなかった。書かない、という選択を初めて意識的に行った。行った瞬間、自分の指先が少しだけ軽くなった気がした。
気がした、だけだった。




