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第51話 樋口さとみ〔野田の野帳〕

 樋口さとみは野田の前職の同僚だった。関西の私大の文化財学科を出て、関西の埋蔵文化財センターに就職した。野田もほぼ同時期に同じセンターに採用された。年齢は野田の二歳下。明るくて、論理的で現場仕事を厭わない人だった。


 二〇一三年の七月、紀北の山中で樋口は失踪した。その現場は二日間の予備調査だった。中世期の山岳信仰遺跡の地表踏査。樋口と野田ともう一人、年配の主任研究員の三人だけが入っていた。一日目の踏査は順調に進んだ。記録写真も整っていた。野帳の記述も整っていた。


 二日目の朝、樋口は宿舎を出た。野田と主任研究員は別ルートの踏査のために樋口とは別行動だった。樋口は単独で、北側の尾根筋を踏査する予定だった。昼の集合時刻に、樋口は来なかった。


 無線が通じなかった。携帯電話の電波も届かない場所だった。野田と主任研究員は樋口のルートを逆に辿った。踏査ルートの中盤に、樋口の三脚が立っていた。


 測量用の三脚で、ターゲットが乗ったままだった。三脚の周りに、樋口の歩いた跡があった。野帳が三脚の下の地面に置いてあった。野帳には、その時刻まで(午前十時三十二分)の観察記録が、丁寧に書かれていた。


 最後の一行は、観察記録ではなかった。「明るすぎる」と一語だけ書いてあった。その下に、何も書かれていない。樋口の靴跡が三脚の周りで終わっていた。三脚から先、靴跡が続いていなかった。地表は乾いていて、靴跡が残りにくい場所だったが、それまでの踏査ルートには靴跡があった。三脚を最後に、跡が途切れていた。


 樋口は見つからなかった。警察の捜索は三日間続いた。山岳救助隊も入った。野田は捜索の間、現場に残った。主任研究員と一緒に、樋口の行動範囲を絞り込もうとした。


 絞り込めなかった。樋口の行動範囲には、不自然な「穴」があった。樋口が立ち寄ったはずの地点と立ち寄らなかった地点が論理的に整合しなかった。捜索は打ち切られた。


 樋口さとみの失踪は山岳事故として記録された。野田は樋口の野帳の最後の一行をずっと覚えていた。「明るすぎる」。その一語が、なぜ書かれたのかを野田は十年間、考えなかった。考えると樋口が今もどこかにいる、という気持ちが立ち上がってくる。立ち上がってくると自分の仕事が手につかなくなる。だから考えなかった。


 考えないようにする筋肉が自分の中にあった。骸ケ谷の現場に来てから、その筋肉が少しずつ動かなくなっていた。動かなくなっていることに、野田は気づいていた。気づいたことを、誰にも話さなかった。話す必要を感じなかった。

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