第49話 台帳〔中川の業務記録〕
野田の出向書類の処理が終わって、報告書の刊行から二か月が過ぎた頃、中川は嘱託職員台帳の更新を行った。毎年の七月末の整理ではない。中間的な更新作業だった。台帳のエクセルデータを開いた。嘱託職員の在籍状況を、一行ずつ、確認した。
廣澤の行があった。「廣澤 文彦 嘱託(無給) 雇用開始日:(記入なし) 雇用期間:無期限」。その行を、中川はしばらく見た。雇用開始日の欄が空欄のままだった。十年間、一度も埋められていなかった。
中川はいつかの時点でその空欄を埋めようとした記憶があった。「本票をもって在籍の記録とする」と備考欄に書いた書式を作成したとき。嘱託採用確認票を作って、それで在籍が証明される、と判断したとき。しかし、雇用開始日の欄は空欄のままだった。
今日、その欄に何かを書こうとして書かなかった。書く根拠がなかった。書く根拠がない欄を、空欄のまま、放置することは、業務上、許されているのか——。中川は、エクセルのファイルを保存せずに、閉じた。
次に、別の台帳を開いた。「過去の特定類型調査案件 調査担当者一覧」というファイル。書庫の奥の引き出しに、紙のファイルとして保管されている。デジタル化されていない。
中川はその紙のファイルを書庫から取り出した。ファイルを開いた。一覧表が年度別に書かれていた。昭和三十八年から、令和五年まで。
約六十年分の調査担当者の名前が書かれていた。書かれた名前は、いずれも、「所在不明により退職」と注記されていた。その注記の横に、廣澤の朱書きで修正が入っていた。各担当者の名前を、伏字(——氏)に置き換えていた。
中川はその朱書きを見た。見ながら、自分の名前をその一覧表の中に、探した。「中川」という名前は、なかった。中川は、調査担当者ではない。課長補佐として、退職処理を行う側だった。一覧表に名前が載るのは調査主査と整理員と解読担当者だけだった。
しかし、ファイルの末尾に別の項目があった。「課長補佐」の項目。名前が年代別に書かれていた。昭和三十八年:佐久間──氏(前任、退任日不明)。 昭和五十一年:佐久間──氏。 昭和六十二年:佐久間──氏。 平成十二年:佐久間──氏。 平成十八年:佐久間──氏。 平成二十六年:佐久間──氏。 令和五年:中川靖広(現任、後任:野田彩乃の調整中)。
中川はその項目をしばらく見た。「佐久間──氏」が、六十年近く、課長補佐として本調査室に在籍していた、と書かれていた。同じ名前で、約六十年。人事考課上、これはどう処理されてきたのか。
中川は、業務上、退職処理を毎年繰り返してきた。所在不明者の退職処理において、約六十年の在籍期間を超える人物は業務手順の中で想定されていない。一般的な公務員の在職期間は長くて四十年。六十年というのは、業務上、ありえない数字だ。
しかし、ありえない数字がファイルの中に書かれていた。中川はファイルの記述を三通りに整理しようとした。一つ目:「佐久間──氏」は、複数の人物の総称である。たまたま全員の苗字が同じだった。
二つ目:「佐久間──氏」は、同一人物だが、実は人ではなく、業務上の役職そのものを指す。三つ目:「佐久間──氏」は、同一人物であり、約六十年にわたって、課長補佐として業務を継続していた。一つ目は複数の人物の苗字が偶然全員同じになる確率を考えると現実的でない。二つ目は、役職そのものに人物名を付ける慣行を、中川は知らない。本調査室の他の役職欄には、明確に個人名が書かれている。
三つ目は、業務上、ありえない。ありえないが、ファイルには、そう書かれていた。業務上の判定としては、三つ目を書類に記載されている事実として、受け入れる以外の手順がなかった。佐久間は中川の前任者だった。中川の着任日に、引き継ぎを行った人物。会議室の前で、「お待ちしておりました」と言った人物。
その人物の名前が、約六十年にわたって、課長補佐の欄に書き続けられていた。中川は、佐久間と話した、十年前の数か月を思い出した。佐久間の顔。声。歩き方。書類の整理の仕方。
覚えているはずだった。しかし、思い出そうとすると顔の輪郭がぼやけていた。声の質が、はっきりしなかった。歩き方は覚えていなかった。書類の整理の仕方は中川自身が十年で身につけた仕方と同じだった。
佐久間の特徴を、中川は明確に思い出せなかった。しかし、佐久間という名前は覚えていた。名前だけ、覚えていた。中身がなかった。
六十年分の「佐久間──氏」が、いずれも、中身のないままにファイルに記載されていた——のかもしれない。その「のかもしれない」を、業務手順上、確認する方法はない。中川はファイルを閉じた。書庫の奥の引き出しに、戻した。
戻したとき、引き出しの中で別のファイルが目に入った。「課長補佐 引き継ぎ事項 令和五年」。そのファイルの表紙に、何かが書かれていた。書かれていた、というよりは、すでに準備されていた、と言うべきか。
中川はそのファイルをまだ作っていなかった。野田への引き継ぎの準備はまだ始めていなかった。しかし、ファイルがそこにあった。中川はファイルを開かなかった。
書庫を出て、自分の席に戻った。その日の業務に、戻った。次の書類を、取り出した。ペンを握った。書類の余白に、自分の手で書いた——いや、確認の印を押した。判子の朱肉が紙に乗った。乾くのに、数秒かかる。
乾く間に、左手の薬指の爪を見た。白い。整っている。変なところは何もない。
それだけが確かなことだった。




