第48話 次の案件が来るまで〔中川の業務記録〕
野田彩乃の出向書類が来たのは報告書の刊行から三週間が過ぎたころだった。封筒に入って、内線ポストに入っていた。差出人の欄が空白だった。受付印は押されている。受付の経路が通常と異なっていた。通常は人事課を経由するが、今回は経由していない。直接、中川のポストに入っていた。
書類の形式は正しかった。内容も適切だった。発令日の記載があった。起案者の欄が空白だった。決裁の経路が、通常の出向書類とは異なっていた。
中川は確認の印を押した。なぜ確認の印を押したのかを、その瞬間は考えなかった。書類の形式が正しければ、処理は進む。それが中川の十年間の判断基準だった。
考えてはいけない、と判断したわけでもなかった。考える機会が来なかった。野田が来た初日、中川は廊下に出た。「よく来てくれました」と言った。
自分の声が普段より静かだと感じた。静かな声が出た。何かを少し失った後のような声だ——と思って、その思いを処理した。十年間で、自分の声が「静かになった」と感じたことが、これまでに何度あったか、確認しなかった。
「これからは野田さんに引き継いでいただきます」と言った。野田は「何を」と聞かなかった。それでよかった。引き継ぐ内容を言葉で説明するより、経験した方が早い。中川自身、十年前に着任したとき、「何を」と聞かなかった。聞こうとしたかどうかすら、業務記録には残っていない。聞かなかった、という事実だけが手元にある。
廊下の奥に廣澤が立っていた。野田を見ていた。中川はその場面を確認した。廣澤が野田を見た。頷いた——ような動きがあった。廣澤の頭が動いたのか、光の加減でそう見えただけなのか、判断できなかった。
判断できなかった、というのが中川の結論だった。その動作に意味があるかどうかを、業務に支障なしとして記録から外した。自分の席に戻った。書類の処理を再開した。
一つ、また一つ。午後の調査室は静かだった。窓の外に光がある。次の案件が来るまで、することはそれだけだ。
来るかどうかはわからない。しかし来るという確信がある。なぜその確信があるのか——手順上、考える必要がなかった。野田の机の前を通った。野田の机の上に、一冊の冊子が置かれていた。「特定類型調査案件 処理手順書」。いつ置かれたのか、確認できなかった。中川は野田の机を見ずに、自分の席に戻った。
書庫の奥の引き出しが、その瞬間、中川の意識に上った。引き出しの中の処理手順書は、まだそこにあるはずだ。確認していない。確認する必要を感じない。
二冊目があるなら、それは中川の関知することではない。次の書類を取り出した。ペンを握った。書類の余白に、自分の手で何かを書いた——いや、確認の印を押した。判子の朱肉が紙に乗った。乾くのに数秒かかる。
乾く間に、自分の手を見た。左手の薬指の爪が目に入った。白い。整っている。変なところは何もない。
それだけが確かなことだった。




