第45話 ナナミという子が〔中川の業務記録〕
「主人から昨日の夜から連絡がなくて」と女性は言った。「今日も現場に行ったまま帰ってこないと調査員の方から聞いて」「確認中です」と中川は言った。
「今、現場はどういう状況ですか」
「確認を進めています」
「見つかる見通しはありますか」
「確認が取れ次第、ご連絡します」女性は少し黙った。受話器の向こうで、女性が呼吸を整える気配があった。泣いてはいない。声が震えてもいない。しかし呼吸の長さが通常の会話のそれと違う。長く吸って、短く吐いている。
「娘がいるんです」と女性は言った。声が変わった。「ナナミっていう子が」中川の手が止まった。ペンを持って手帳を開いていた。「木口妻、問い合わせ」と書こうとしていた。しかし「ナナミ」という名前が来た瞬間、ペンが紙の上で止まった。
ナナミ。
固有名詞だ。誰かの名前だ。木口の娘の名前だ。止まった、ということが確認できた。止まった理由が何なのかを確認しようとした。確認できなかった。
中川には子どもがいない。妻もいない。十年前に離婚した。離婚の経緯を、中川は今この瞬間、思い出した。長らく思い出していなかった。なぜ今思い出したのか、業務上の必要を認めなかった。
「六月の発表会、主人は現場で来られなくて」と女性が続けた。「そのかわり、七月の最後の土曜日に、先生が小さな会をもう一度、開いてくださることになっていて。主人が、今度は行くって。手帳に書いた、って」手帳に書いた、と中川は耳の中で繰り返した。
手帳に書く、という行為が誰かを「行く」ことに結びつける。書いたから行ける。書いたから忘れない。しかし書いた人が消えた。
「確認中です」と中川は言った。「確認が取れ次第、ご連絡します」
「土曜日まで、もう」
「確認が取れ次第」女性は黙った。受話器の向こうで、小さな子供の声が遠くに聞こえた。「ママ」と言っていた。母親が何かを答える前に、電話が切れた。
切ったのは女性だった。中川は受話器を置いた。ペンを動かした。「木口妻、問い合わせ。確認中と回答」と書いた。
「ナナミ」という名前は書かなかった。「ピアノ発表会」も書かなかった。書類処理に必要な情報ではない。その判断は正しかった。
しかし手帳を閉じる前に、「ナナミ」という音が、もう一度頭の中に来た。
ナナミ。
来た。それだけだった。中川は今週の土曜日の欄を確認した。七月の最後の土曜日。何も書いていない。何も予定がない。そこに「ナナミ ピアノ発表会」と書いてもよかったかもしれない。
しかし書く理由が確認できなかった。自分の手帳に書く必要があることではない。「確認中」という状態が続いている。それだけが確かなことだった。
手帳を閉じた。窓の外を見た。午後の駐車場に、廣澤が立っていた。いつから立っているのかは業務上の所在記録の対象ではなかった。建物の影のそばに、動かずに立っている。足の向きと肩の角度がこちらを向いているのかどうかを判断しにくい位置だった。
中川は廣澤を見た。廣澤がこちらを見たか、見なかったか、判別できなかった。次の書類を取り出した。




