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第44話 一身上の都合〔中川の業務記録〕

 野田から電話が来たのは午後三時過ぎだった。受話器を取ると野田の声がした。落ち着いた声だった。しかし普段より少し速い。早口になっているわけではない。間合いがいつもと違う。


 「木口さんが現場で所在不明になりました。解読担当者の方も、最終報告書発送後、連絡が取れない状況です」


 「確認します」と中川は言った。「現場全体で所在確認を続けてください」


 「はい」


 電話が切れた。手順書を出した。「五 その後の対応。関係者の所在が確認できなくなった場合は退職として処理する」。


 教育委員会担当者に電話した。「千葉県特別埋蔵文化財調査室の中川です。木口主任研究員と木簡解読担当者が本日付で所在不明となりました」「確認しております」と担当者は言った。速度も間合いも変わらない。木口の名前を出しても、解読担当者の名前を出しても、変わらない。「確認しております」の質感が一定だ。


 「退職として処理してください」


 「はい。委託担当者については契約終了として処理してください。既定の手順で」


 「過去にも同様の事例がありました。対応は既定の手順で」その一文が、また来た。通話時間は二分四十七秒。報告事項が二件あったので、いつもより十数秒長かった。それだけがいつもと違う唯一の点だった。


 電話が切れた。木口のファイルを出した。退職日の欄に「令和五年七月二十二日」と書いた。退職事由の欄を開いた。


 書く前に、机の上の申告書を見た。七月初旬に木口が出した、あの七ページの申告書だった。封筒から出して、机の上に置いたまま、整理しないでいた。「変だと思った」という一語が、四箇所ある。中川は十年でそれを数えた——いや、それは今、今日、今ここで数えた。十年ではない。今日、今ここで初めて数えた。四箇所。


 その四箇所の「変だと思った」が、机の上に開かれている。退職事由の欄に、ペンを置いた。「一身上の都合」と書いた。書いた瞬間、何かが来た。


 「一身上の都合」という言葉と木口という人間のことが、一瞬だけ接触した。木口が手帳に「ナナミ 水曜 ピアノ 忘れない」と書いていた人間だということを、中川は知らない。しかし申告書の七ページの中に、木口という人間が残っていた。「変だと思った」という語。丁寧な記録。「留置する」という判断の積み重ね。


 その人間の退職事由が「一身上の都合」になった。四箇所の「変だと思った」と、一箇所の「一身上の都合」が、机の上に並んでいた。何かが来た。来た、ということは確認できる。何が来たのかは——


 ファイルを閉じた。申告書も封筒に戻した。封をした。封をした申告書を、健康管理記録の付録Hに綴じた。「封緘・管理」が手順書に定められている。封緘とは、紙の上部に糊で帯を貼って、開封時に痕跡が残る形にすることだ。中川は糊を取り出して、その作業を行った。


 糊が乾くまで、机に置いた。乾く間、廊下の方を見た。誰も歩いていない。蛍光灯の音が、聞こえないはずなのに聞こえる気がした。


 一時間後、木口の妻から電話が来た。

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