第43話 所在については別途照会中〔中川の業務記録〕
八月の初旬、回覧文書を綴じた。毎月の月初に、前月分の内部回覧文書を綴じる作業がある。回覧先の各部署の受領確認印を確認しながら、ファイルに編綴していく。十年間、変わらない業務だ。
令和五年七月分の回覧文書は十六通だった。各文書の表紙に、回覧先一覧と確認印の欄がある。教育委員会総務担当、文化財課、都市計画課、埋蔵文化財調査室、地中階調データ係。五つの部署が標準の回覧先だ。
最初の四部署には、印が押されている。教育委員会総務担当の印は丸い。文化財課の印は角ばっている。都市計画課の印は青いインク。埋蔵文化財調査室の印は中川自身が押した。
地中階調データ係の欄だけ、空白だ。十六通すべてがそうだった。地中階調データ係の欄がすべての文書で空白。中川はそのことを、確認した。確認したことが十年で何度目かを数えていない。
毎月、ほぼ同じ状態だ。月によっては、十数通のうち一通か二通だけ印があることがある。しかし大半は空白。今月は十六通すべてが空白だった。
地中階調データ係に、回覧の遅延を問い合わせる手順がある。庁内便で照会票を送る。前回、それを送ったのは——いつだったか。手帳を遡った。三年分の手帳を出してきた。
令和四年八月:「地中階調データ係 照会票発出」。 令和三年六月:「地中階調データ係 照会票発出」。 令和二年十一月:「地中階調データ係 照会票発出」。遡って何件もあった。発出記録だけがあって、返答記録がなかった。
返答記録がない、ということは、返答が来ていない、ということだ。返答が来ていないことを、中川はこれまで上長に報告したことがない。報告すべきだと判断したことが業務日誌に記載された痕跡はない。今回も照会票を作成した。
「貴係への回覧文書(令和五年七月分・十六通)の受領状況につき、照会する。返答期限:令和五年八月末日」。庁内便の封筒に入れた。封をした。
封をしてから、宛先を確認した。「■■■■部 ■■■■課 地中階調データ係」。部署名の上位の階層が塗りつぶされたように記入されていない。封筒の宛先欄が印刷段階からそうなっていた。庁内便の封筒の様式は全庁で統一されている。中川の手元の封筒の宛先欄だけがこうなっているわけではない。十年間、同じ封筒を使ってきた。最初からそうだった。
最初からそうだった、と中川は思っている。誰にも、確認していない。封筒を内線ポストの「庁内便 発出」の箱に入れた。箱には他にも数通の庁内便が入っていた。中川が出した便もあれば、誰かが出した便もある。
箱を見た。
箱の底に、過去の発出便の控えが薄く残っている気がした。物理的に残っているわけではない——回収済みの便は箱に残らない。しかし「ここに何通の便が出されたか」という総量の感覚が、箱の物理的な重みとは別に中川の中にあった。地中階調データ係に、これまでに何通出したか。
数えなかった。数える前に、十年以上前の、ある日のことをふと思い出した。着任して数年目の、ある日。中川は地中階調データ係のフロアに、一度だけ、実際に行ったことがあった。庁舎の地下二階。便覧の組織図で、当該部署が「地下二階 奥」と記載されていた。回覧の遅延について、対面で問い合わせるべきだと判断し、エレベーターで降りた。
地下二階のフロアに着くとエレベーターを降りた廊下の天井から、「地中階調データ係」と書かれた標識が、下がっていた。標識の下に、入り口を探す。
なかった。
廊下の片側にはキャビネットの背中だけが並び、もう一方の側は窓のない壁だった。標識の真下の床に、扉の痕跡もない。廊下を奥まで歩くと突き当たりに壁があり、その手前で廊下が終わっていた。地中階調データ係に対応する物理的な部屋は地下二階のフロアに存在していなかった。
しかし、標識は確かに下がっていた。中川はエレベーターに戻った。戻る前に、廊下の入り口側の壁をもう一度見る。壁の表面に、薄く影が落ちていた。影が落ちる光源は、廊下のどこにも、ない。
蛍光灯は均一に光っていた。光源としての方向性がない光だった。影は、光のない場所に落ちていた。中川は地下二階のフロアを出た。
エレベーターで一階に戻り、自分の席に戻る。席に戻った後、地下二階のフロアの構造を業務上の問題として上司に報告しようとした。報告する前に、報告書の様式を確認した。「フロアの物理的構造に関する報告」という様式が、見当たらない。
報告する手順が業務手順の中にない——それが、課長補佐としての、確認結果だった。判断したことを、業務日誌に書かなかった。書く根拠が、業務日誌の項目の中にも、なかった。それ以来、十年以上、中川は地下二階のフロアに行っていない。
地中階調データ係への庁内便は、毎週、出している。返信は来ない。
席に戻った。
台帳に書いた。「地中階調データ係 照会票発出 令和五年八月 所在については別途照会中」。「所在については別途照会中」という言葉を、中川は使っていた。十年間、使い続けてきた。所在を別途照会する手順は存在する。手順書には書いていないが、業務実務として存在する。所在を照会する先がどこかは——中川は知らない。知らないが、「別途照会中」と書く。書くと業務が継続中であることが台帳に残る。終了していない。所在不明として処理したわけではない。「照会中」だ。
台帳を閉じた。書庫の奥に、「特定類型調査案件 処理手順書」が収まっている引き出しがある。十年で何度か開けた引き出し。今日は開けない。
業務手順は中川の業務の一部として定着している。しかし、その手順を最初に誰が定めたか——中川は考えたことがない。考える必要が、業務上、なかった。考えないでいる間に、手順は中川の中で自走していた。




