第41話 後ほど確認します〔中川の業務記録〕
翌日、木口から電話が来た。受話器を取ると木口の声がした。誠実な声だ。十年で何人かの主査と話してきたが、木口の声は「迷いを声に乗せる」声だった。迷いを隠そうとせず、しかし迷いに引きずられない。
「申告書の件ですが」と木口は言った。
「はい」
「家族に現場の状況を話すことは、どの程度まで許可されていますか」
「申告内容そのものの開示はお控えください」
「妻には話してもいいですか」
「申告内容については控えていただく方向で」電話の向こうで、木口が少し考えている気配があった。「わかりました」と木口は言った。「過去の類似案件について、参照できる記録はありますか」
「あります。後ほど確認します」
「後ほど、とはいつごろですか」
「できる限り早急に」
「お願いします」
電話が切れた。手帳を出した。「過去類似案件 参照」と書いた。書庫の奥の、過去案件のフォルダの場所を中川は知っていた。「特定類型調査案件」の項目で分類されたフォルダ。背表紙の色がほかと違う。茶色のラベルが貼ってあって、年度ごとに分かれている。
立ち上がろうとした。立ち上がる動作の途中で、止まった。止まったことを、自分でも認識した。なぜ止まったのかは業務上の問題に該当しない。
もう一度立ち上がろうとした。今度は立った。書庫の方向に二歩、歩いた。三歩目の前で、机の上の別の書類が目に入った。明日の朝に処理しなければならない書類だった。
中川は席に戻った。先にそちらを処理することにした。「過去類似案件 参照」の項目に、線を引かなかった。線を引くと未処理であることが台帳に残る。残しておけば、後で気づける。
線を引かないまま、机に置いた。その手帳は翌日以降も机の上にあった。「過去類似案件 参照」の文字は、視界に何度も入った。入るたびに、手順上、参照不要として視線を逸らした。なぜ参照不要と判定したのかを、業務上、考えなかった。考える根拠が業務日誌の項目の中になかった。
次の書類を処理した。




