第40話 変だと思った〔中川の業務記録〕
七月の調査室は静かだった。木口たちが現場に出ている時間帯、調査室に残っているのは中川と時々来る廣澤と整理作業をする松田だけだ。廊下から聞こえる音がない。庁舎の他のフロアから来る人の声も、エレベーターの音も、この階には届かない。夏の外の喧騒が建物の厚い壁を通して薄く聞こえる。
中川の席から窓を見ると駐車場とその向こうの道路が見えた。日差しが強くて、アスファルトが照り返している。行き交う車が光を跳ね返す。その光の中に、人影は見えなかった。
木口から申告書が届いたのは七月の初旬だった。封筒に入って、調査室の内線ポストに入っていた。手書きで「中川様」と宛名が書いてある。木口の字だ。少し右上がりの、丁寧で速度の遅い字。十年間で、現場主査の字を中川は何種類か見てきた。木口の字はその中で最も「迷いを記録する字」だった。
封筒を開けた。七ページ。コピー用紙。両面印刷。
現場日誌の抜粋と現場で発生した申告事項の整理だった。読みながら、何かを感じた。感じた、という表現が正確かどうかわからない。「感じる」という行為を、中川は長い間後回しにしてきた。感じている時間があれば処理が進む。感じた後に何かをするとしたら、それは処理だ。感じること自体は処理ではない。
しかしこの七ページを読む間、何かが来た。「足元の地面が下に向かって開くような感覚があった」という三宅調査員の申告。「セクション図の縦軸がどちらが上か一瞬わからなくなった」という野田調査員の申告。「天候欄に晴と書いた。しかし当日は朝から雨だった」という木口自身の誤記の記録。
各申告の末尾に、木口は「原因未特定、留置」と書いていた。十年間、この調査室で書類を処理してきた。「留置」という判断は正しい判断だ。確認できないことは確認できないとして、次に進む。木口はそれを正確にやっている。
しかし「留置」する前の一行——「変だと思った」という一語が、いくつかの記録の中に残っていた。変だと思った。中川は一度、書類を置いた。自分の手を見た。机の上に置いた手。指が少し乾いている。コピー用紙の縁を長く触っていた指。手の下に机。木目調の合板。十六年使っている。中央の、ちょうど書類が置かれる場所がわずかにすり減って光沢を失っている。机の向こうに床。リノリウムが少し黄ばんでいる。床の下に建物の構造。鉄筋コンクリート。築四十二年の庁舎。構造の下に地面。
その順番が揺らぐことはない。中川は申告書を取り上げた。手順書を開いた。「特定類型調査案件 処理手順書」。書庫の奥の引き出しに収められている冊子。中川がこの十年で何度か手に取った。誰が起案したのか、確認したことがない。今日も確認しない。
「三 情報管理。関係者の申告内容を外部に開示しない。健康管理記録に記録・封緘・管理すること」。中川は手順書を閉じた。
申告書のページに戻った。「健康管理記録に反映する」と書いた。書いた字が自分の字だと確認した。ふと申告書の余白を見た。
赤い線が一本、引かれている。木口の申告書の余白に、廣澤の校閲跡が入っていた。「変だと思った」という語に、薄い赤い波線が下に引いてある。修正の指示は書かれていない。波線だけだ。
いつ入ったのか。封筒は中川が自分で開けた。封がされていたのを確認した。開けてから今までの間、書類は中川の机の上に置かれていた。廣澤が中川の机の前を通った記録はない。
しかし赤い波線が入っている。中川はその波線を、しばらく見た。何秒か、何十秒か。赤いインクの粒子が紙の繊維の上に乗っている。乾いている。指先で触れた。乾いた粉のような感触があった。
中川は申告書を取り上げた。健康管理記録の付録に、申告内容を転記し始めた。書類を処理することが中川の仕事だ。それだけだ。




