第38話 着任日の写真〔中川の業務記録〕
六月の中旬、中川は机の引き出しの整理を行った。毎年六月、人事の年度替わりの後、引き出しの中身を整理する習慣があった。十年間、続けてきた習慣だった。古い書類を処分し、必要なものを再整理する。年に一度の作業として、定着していた。
引き出しの一番奥に、写真が一枚、入っていた。古い紙焼きの写真。色がわずかに褪せている。十年前に撮影されたものだ。
着任日の写真だった。会議室の前の廊下。中川が一人で写っている。グレーの上着、黒のスラックス、白いシャツ。手は両側にだらりと下げている。表情は固い。四十二歳。十年前の中川。
背景に、会議室の入口が見える。会議室のドアは、半分、開いている。その向こうに、廣澤の席が見える。廣澤の席だけが見える。
廣澤は写っていない。席は、空席である。しかし、その空席を写真の中でぼんやりと何かが覆っているように見える。覆っている、というのは、影のようなものが、空席の上にある、という意味だった。光の加減で、影が出来るはずのない場所に影がある。
中川はその影を毎年確認してきた。毎年、写真を取り出して、見る。引き出しに戻す。それだけだ。
今年も、同じ動作をした。しかし、今年は写真の裏面を初めて確認した。裏面に、何かが書かれていた。手書きの文字。
「最初からいらっしゃいます」。中川の字だった。しかし、書いた覚えがなかった。書いた覚えのない字が自分の字で写真の裏面に書かれていた。
書いた事実が手元にあった。書いた事実は確かだった。書いた覚えがない、ということも、同じだけ確かだった。二つの「確かなこと」が、同時に存在していた。
中川はその矛盾を整理しなかった。整理する気が起きなかった。写真を、引き出しに戻した。戻したあと引き出しを閉じた。
閉じる動作の中で、引き出しの奥にもう一つ何かがあることに、気づいた。もう一つの紙片だった。古いメモのような紙。
取り出した。
「廣澤校閲、着任日について着任日:不明 雇用形態:嘱託(無給) 契約書:未確認 備考:『最初からいらっしゃいます』との口頭説明あり」
中川の字だった。メモの日付は十年前の四月の日付になっていた。中川の着任日の翌日。しかし、中川はこのメモを書いた覚えがなかった。
書いた覚えがない、ということは、別の人物が中川の字で書いた、ということになる。あるいは、書いた覚えが、十年の間に、消えた、ということになる。どちらの可能性も、確認できなかった。中川はメモを引き出しに戻した。
戻したあと引き出しを、もう一度閉じた。その日の業務に、戻った。




