第37話 最初からいらっしゃいます〔中川の業務記録〕
中川靖広がこの調査室に着任したのは十年前の四月だった。
四十二歳だった。前職は本庁の文化財課で、十六年ほどいた。異動の辞令は前年度の三月半ばに来た。「特別埋蔵文化財調査室・課長補佐」。聞いたことのある部署だったが、業務内容を詳細に知る機会はなかった。引き継ぎ書類は一冊だけだった。表紙に「事務処理要領(抜粋)」とあった。中川はそれを一晩で読み終えた。一晩で読み終えられる程度の量だった。
着任初日、千葉市某区の庁舎の三階に上がった。廊下のリノリウムが少し黄ばんでいた。蛍光灯の光が均一で、影の薄い廊下だった。前任者の佐久間が自分の元の席で立ち上がって、「お待ちしておりました」と言った。佐久間の机の上には、引き継ぎのためにすでに整えられた書類が積まれていた。
書庫、会議室、電話、コピー機、緊急時の連絡先。佐久間は順番に部屋を案内した。各部屋のドアの開け方が決まっていた。書庫は引いて開ける。会議室は押して開ける。給湯室はスライド式。十年たった今も、中川の身体はその開け方を覚えている。
最後に会議室を覗くと部屋の奥、長机の端に廣澤が座っていた。手元に薄い冊子が置かれていた。読んでいるのか、ただそちらを向いているのか、判断のつかない姿勢だった。「あの方は?」と中川は聞いた。
「廣澤さんです。校閲を担当していただいています」と佐久間は言った。「最初からいらっしゃいます」
最初から。
その言葉の意味を、中川はその瞬間に確かめなかった。佐久間がそれ以上の説明を加えなかったので、こちらも問わなかった。問う理由が思い浮かばなかった。佐久間は六月に異動した。その後の連絡先を聞いていない。聞いておくべきだったかどうか、後から考えると、確認できない。
十年が過ぎた。廣澤の外見は中川の記憶の中で変化していない。白髪が増えたわけではない。皺が深くなったわけでもない。服装が変わることもない。十年前と今で、廣澤が違って見えることがない。
そのことを、中川は不思議に思ったことがない。思う前に、次の書類が来るからだ。着任して最初の数年、中川は朝のコーヒーを淹れる習慣を持っていた。給湯室で粉から落とすタイプのドリッパー。前職から続けていた習慣だった。それを七年前にやめた。やめた理由を、中川は覚えていない。覚えていないこと自体に違和感を持ったことがない。やめたという事実だけが机の引き出しの中に残っている。ドリッパーが一つ、深いほうの引き出しの奥に入っている。捨ててはいない。捨てる理由が思い浮かばなかった。
机の上の引き出しに、着任日に撮った写真が一枚ある。誰が撮ったのか覚えていない。佐久間でもなかった。会議室の前で、中川が一人で写っている。背景に廣澤の席が見える。廣澤は写っていない。
その写真を取り出して見ることがある。年に一度くらい、書類を整理する流れで。見るたびに、自分の顔がそこにあって、廣澤の席が空いている、ということを確認する。確認して、引き出しに戻す。




