第36話 自分は——〔松田の未送信メッセージ〕
八月十九日の夜、松田はスマートフォンを開いた。兄あてのメッセージ画面を開いた。下書きが、八月十六日のまま、残っていた。「兄さん、忙しい」とだけ書かれた文章。
その下に、新しい行を書いた。「自分は——」。
書いた。
書いて、続きを書こうとした。続きが出てこなかった。「自分」のあとに、「は」と書いた。「は」のあとに、何が続くのか。「忙しい」と書こうとした。「整理員として作業している」と書こうとした。「兄さんに伝えたいことがある」と書こうとした。
どれも、出てこなかった。「自分」という主語が、それ自体として空白だった。主語の中身がなかった。松田はその「自分は——」を、しばらく見た。
画面の上に、三文字と長い棒線だけがあった。送信しなかった。下書きとして保存した。保存して、画面を閉じた。
松田は机に向かい、整理室の手帳を開いた。手帳の最後のページに、走り書きをした。「自分は——」。書いた瞬間、手の力が抜けた。書いた三文字のうち、「自」が比較的しっかり書かれていた。「分」がやや薄かった。「は」になるとほとんど見えないほど薄かった。物理的に筆圧が抜けたのか、それとも書いた人間の何かが抜けたのか——松田には、判別できなかった。
判別する気が起きなかった。手帳を閉じた。台所に行った。冷蔵庫を開けた。鮭の切り身が一切れ、買ったままの状態で入っていた。賞味期限を一日過ぎていた。
松田はその鮭を、凝視した。焼くべきだったかどうかを、判断しなかった。冷蔵庫を閉じた。台所のテーブルに、両手を置いた。
両手の指の爪を、見た。左手の薬指の爪の輪郭がまだ整っていた。しかし、その輪郭が——爪と皮膚の境目にある、繊細な弧の形が——どこかで見たことがあるパターンであることに、松田は気づいた。付録Lの封緘紙。
外部分析機関から届いた、あの和紙の繊維。封の縁を指で押したとき、繊維が爪の縁にわずかに付着した。整理室の机の上で、ライトに当てて、繊維の織り目を観察したことがある。その織り目と今の自分の爪の輪郭が同じパターンを描いていた。
爪の表面に、皮膚との境目に沿って、繊維のような微細な縞が走っていた。台所の蛍光灯の下では、紙の繊維と自分の爪の繊維の、区別がつかなかった。松田は、指を、テーブルから離した。離した指を、もう一度見た。
爪の縞はまだあった。整理上、これを台帳に記録する手順は定められていなかった。記録する根拠が、業務上、なかった。それだけが確かなことだった。




