第34話 兄〔松田の未送信メッセージ〕
八月十六日、兄からメッセージが来た。松田のスマートフォンに、通知が表示された。「最近、連絡ないけど、元気か」。短い一文だった。
松田は画面を開いた。下書きの中に、六月以降に書きためた断片がまだ残っていた。「現場と言っても」「自分も忙しい」「整理員として」——主語が定まらないまま、何も送信していない断片の集合。「兄さん、忙しい」と打った。
打ってから、「忙しい」のあとを、続けようとした。考えた結果、何を書けばいいかわからなかった。「整理員として、八月分の作業を続行している」と書くのは、兄あてのメッセージとして不自然だ。「自分は、今、——」と書こうとして、「自分は」のあとに続く語が出てこなかった。
主語のあとの、述語が出てこない。主語がそれ自体として何かを問うていた。「自分は」と書いた瞬間、その「自分」が、今何をしている人間なのか——その答えが書く手から消えていた。送信しなかった。
画面を閉じた。翌日、兄から、もう一度メッセージが来た。「返事がないけど、なにかあったのか」。松田はその通知を、見た。
見て、画面を開かなかった。通知を、二日間、消さずに放置した。二日目の夜、松田は宿舎の机でふと兄の顔を思い出そうとした。最近、自分は兄に会っていない。最後に会ったのは去年の正月。実家で、簡単な食事をした。兄は、その時、四十二歳だった。長身、痩せ型、髪は短く、無精ひげ。職業はメーカー勤務。妻と娘が一人。
経歴は覚えていた。顔の輪郭がぼやけていた。兄の鼻の形、目の形、口の形——いずれも、覚えているはずだった。長年、一緒に過ごしてきた家族の顔だ。
しかし、いま思い浮かべようとすると顔の中央が空白だった。兄が笑った時の表情、怒った時の表情、困った時の表情——いずれも、頭の中で形を取らない。松田は自分の手で顔を覆った。掌の感触は自分の顔の輪郭を伝えていた。兄の顔の輪郭も、自分の顔と似ていたはずだ——兄弟だから、似ている、と昔から言われていた。
しかし、いま自分の顔の輪郭は感じられるのに、兄の顔の輪郭は思い浮かばなかった。兄貴の顔が、思い出せなくて——という一行を、頭の中で書いた。頭の中で書いた一行を、送信するわけにもいかなかった。その夜、松田は眠れなかった。眠れないまま、画面を開かないままにした。
二日経って、ようやく、画面を開いた。「兄さん」と打った。打ってから、続きを書こうとした。「自分は」と書こうとして、書けなかった。
「整理員として」と書こうとした。しかし、兄に向けて「整理員として」と書くのは、不自然だった。家族向けのメッセージとして、業務上の主語は選ばない。しかし、ほかに選べる主語がなかった。
松田の指は画面上で次の語を続けた。「兄さん、整理員として留置する」。
書いた。
書いてから、画面を見た。「留置する」。兄あてのメッセージに、業務記録の語が混入していた。「留置する」という語は、申告事項の処理についての業務用語だ。家族向けの文章に、本来、出ない。
松田はその一文を削除しようとした。削除しようとして、削除する前に続きを打った。「兄さん、整理員として留置する。確認しております」。
次の一文も、混入した。「確認しております」。これは中川が教育委員会担当者から繰り返し受け取る応答だった。松田が、繰り返し、聞かされてきた語。それが自分の指から出ていた。
削除しようとした。削除する前に、また続きを打った。「兄さん、既定の手順で。閉じない眼球」。
「既定の手順で」。「閉じない眼球」。松田は自分の指が書いている語を止められなかった。書きながら、自分が書いているのか、業務記録の語彙が松田の指を借りて書かれているのか、区別がつかなかった。
画面の上に、四行の下書きが並んでいた。「兄さん、忙しい」。 「兄さん、整理員として留置する」。 「兄さん、整理員として留置する。確認しております」。 「兄さん、既定の手順で。閉じない眼球」。
四行を、長く見た。四行のいずれも、兄に届くものとして書いた覚えがなかった。しかし、画面の上に四行は存在していた。書いた手は自分の手だった。
全削除を、押した。四行が画面から消えた。画面が空白に戻った。画面を閉じた。
送信しなかった。その日の終業時、台帳に書いた。「整理員としての作業を続行する」。書いた字を、しばらく見た。
主語が「整理員」だった。「自分」という主語は、今日、台帳には一度も出てきていなかった。その夜、宿舎で松田はもう一度画面を開いた。兄からの新しいメッセージはなかった。
新規メッセージの画面を開いた。「ナナミ」と打った。打って、見続けた。
ナナミ。
誰の名前なのか、松田は知らなかった。しかし、その名前を自分の手で入力していた。誰の名前か知らない名前を、誰宛てのメッセージとも決まっていない画面に、入力した。松田は画面を閉じた。
保存もしなかった。
削除した。
画面上から、「ナナミ」の三文字は、消えた。しかし、松田の指先にその文字を入力した感触がかすかに残った。




