第33話 来室記録がない〔松田の整理台帳〕
翌週、廣澤がまた整理室に来た。来た、というのが、確かなことかどうか、後で確認できなくなった。その日、松田は午後の三時過ぎに整理室の隅にあるキャビネットに移動していた。新たに搬入された資料の収納のためだった。十分か十五分ほどの作業だった。
戻ってきたとき、自分の机の上に書類が一通、置いてあった。松田が出すときには、机の上は空だった。出土品トレーは別の机に移していた。書類の山もない。完全に空の机だった。
戻ってきた机の上に、書類が一通、置かれていた。校閲跡が入った報告書原稿の一枚だった。N-088の項目だ。松田が書いた「眼球様の形態」の表現が、赤鉛筆の波線で消されていた。修正案として、「円形構造」と朱書きされていた。
松田はその書類をしばらく見た。報告書の原稿は、整理室には来ない。報告書の原稿は、本来、編集者の佐伯の手元にある。佐伯はまだ着任していない。十月にならないと着任しない。八月の今、原稿はまだ存在しない。
存在しないはずの原稿の、N-088の項目の校閲跡。松田の机の上に、置かれていた。誰かが置いた。松田はキャビネットから戻る道中、誰ともすれ違わなかった。整理室のドアは内側から確認できる位置にあった。誰かが入ってきたら、わかるはずだった。
しかし誰かが入ってきた様子はなかった。今泉に確認した。今泉も、午後の三時から三時十五分の間、別の部屋で書類整理をしていた。整理室に誰かが入ってきたかどうかはわからなかった。
来室記録簿を確認した。八月十五日の項目に、廣澤の名前はなかった。記入されていなかった。しかし校閲跡は廣澤の赤鉛筆の特徴を持っていた。紙の繊維にやや沈み込んでいる赤い線。指先で触れるとわずかに粉のような感触が残った。
松田は台帳に書いた。「廣澤校閲による修正指示。本日付。来室記録に廣澤来室の記載なし。経路不明」。
書いた字を、目を離さなかった。「経路不明」という言葉を、松田は使っていた。整理員が書く台帳の中に、「経路不明」という表現は、本来、出ない。事実関係が確認できないことを「経路不明」とだけ書くのは、業務記録として極めて曖昧だ。
しかし他に書きようがなかった。他に書きようがない、と松田は認めていた。台帳を閉じた。




