第31話 八月〔松田の整理台帳〕
八月に入っても、整理室の作業は続いていた。現場の発掘は七月末で一旦停止していた。木口主査の所在不明、および最終報告書発送後の解読担当者の連絡不通。現場は閉鎖された。しかし整理室の作業は続行された。出土品の整理は現場が停止しても続けられる業務だ。台帳の整備、写真資料の確認、報告書作成のための基礎整理——それらの作業を、松田は黙々と進めていた。
八月の整理室は夏休みで職員の出入りが少なかった。今泉も、有給休暇で五日間、不在になった。残ったのは松田だけだった。整理室に一人で座っていた。蛍光灯の音と温湿度管理装置の低い音だけが聞こえていた。聞こえていることを、改めて意識した。
台帳に、書いた。「整理員として、八月分の作業を続行する」。書いてから、自分の手を見た。爪の形が変わっていなかった。
しかし、その「変わっていない」状態が、いつからの状態なのかを確認しようとした。十年前からなのか。三日前からなのか。今日からなのか。輪郭の連続性が、いつから自分の輪郭の連続性だったのかを、確認しようとした。
確認できなかった。整理上、保留と判定した。台帳には、書かなかった。書かなかった理由を、考えなかった。
その日、夕方、松田はスマートフォンを開いた。兄あてのメッセージ画面を開いた。下書きに、六月から書きためた断片が残っていた。「現場と言っても」「自分も忙しい」——保存されていた断片の主語が、自分の手元から見て、もう自分のものではなく見えた。
「自分」という主語がどこの誰のことを指しているのか、瞬間、判断できなかった。判断できなかったが、画面を閉じなかった。新しい行に、書いた。「整理員として、近況を伝える」。
書いて、消した。「整理員として」では兄に意味が通じない。「自分」と書こうとした。書こうとしたが、書けなかった。
書けないまま、画面の前で長く時間が過ぎた。画面を閉じた。送信しなかった。その夜、夢を見た。夢の中で、誰かが「次の人を呼ぶ」と言っていた。声の主が誰か、判別できなかった。声の質感は、廣澤の声のようでもあり、自分の声のようでもあった。
起きてから、夢の内容を台帳に書こうとして書かなかった。台帳に書く内容ではない、と判断した。判断したことを、覚えていた。




