第30話 今泉〔松田の整理台帳〕
七月の終わり、整理室で松田は今泉と短い会話を交わした。業務上の会話ではなかった。整理作業の合間、給湯室で二人が同時に水を取りに行った。松田は紙コップに冷水を入れた。今泉は紅茶を淹れていた。
「N-088、まだ思い出すんですよ」と今泉は言った。ティーバッグをマグカップから取り出している、手の動作の最中にぽつりと言った。松田は紙コップを口元から下ろした。
「眼球の、ですか」
「はい。閉じない、というのが頭から離れなくて」今泉は、紅茶をかき混ぜていた。スプーンが、マグカップの内側に当たる、軽い音。
「思い出すって、どんな時にですか」
「夜、眠る前です」松田は、その答えを聞いた。
夜、眠る前。
松田自身も、夜、眠る前に何かを思い出すことが増えていた。具体的に何を思い出しているのかは覚えていない。しかし、思い出す「気配」がある、ということは、覚えていた。「私もです」と松田は言った。
「眠る前に、何かを思い出すような感覚があります。具体的には、何を、なのか、思い出せないんですが」今泉は、マグカップを両手で持っていた。数秒、黙った。「松田さん」と今泉は言った。
「はい」
「これ、後で松田さんに迷惑をかけるかもしれないんですが——」
「と言いますと」
「八月の頭から、有給を取ろうと思っています」松田は、その言葉を聞いた。今泉が有給を取ること自体は、業務上、なんの問題もなかった。整理室の業務は二人いれば充分に進む。一人が休んでも、業務に支障はない。
しかし、有給を取る理由を今泉が言わなかった。普通、「実家に帰る」「家族の用事」「体調管理」——何らかの理由を、添えるはずだった。今泉は理由を言わなかった。松田も、聞かなかった。
「いえ、お休みは大事です」と松田は言った。
「ありがとうございます」今泉は、紅茶を一口飲んだ。飲んでから、別のことを続けた。
「松田さんも、必要なら、休まれた方がいいです」
「ありがとうございます」
「整理員として、必要だと感じたら、です」「整理員として」と今泉は言った。松田はその言葉を自分の中で確認した。今泉が整理員という主語を使った。今泉も、自分のことを職名で呼ぶことが最近増えていた。
しかし、今泉の「整理員として」は、自分のことを指していなかった。松田のことを、指していた。「整理員としての松田が、必要だと感じたら、休まれた方がいい」と。今泉は松田を職名で見ている。
松田は今泉を職名で見ている。二人とも、自分のことを職名で呼ぶようになっていた。同じ場所で、同じ時期に同じ変化を共有していた。しかし、その変化を、二人とも、確認しなかった。
今泉は給湯室を出た。松田は紙コップをシンクに置いた。空のコップを、しばらく見た。その日、今泉の有給休暇の届出が調査室に提出された。期間:八月二日から八月六日まで。五日間。理由欄:「自己都合」。
中川がその届出を受理した。今泉は、八月二日の朝、整理室を出た。「整理員として、しばらく休みます」と松田に言った。「いってらっしゃい」と松田は答えた。
「いってきます」と今泉は答えた。その「いってきます」が、業務上の挨拶として、適切だったかどうか、松田は、整理上、保留した。判断する必要が、業務手順上、なかった。今泉は、五日後の八月七日の朝、整理室に戻ってきた。
戻ってきたが、整理室での業務が少し変わっていた。今泉の机の上に、新しい手帳が置かれていた。前の手帳とは別の、新しい一冊。中身はほとんど書かれていなかった。新しい手帳に切り替えた、ということだった。
なぜ切り替えたのか、今泉は説明しなかった。松田も、聞かなかった。




