第29話 主査と整理員〔松田の整理台帳〕
七月の半ば、現場と整理室の連絡で木口主査と松田は何度か言葉を交わした。現場から運ばれてきた出土品の引き渡し、整理結果の照会、台帳と現場日誌の整合確認——業務上の連絡が中心だった。ある日、木口が整理室に来た。「主査として確認したいことがあります」と切り出した。
松田は手を止めた。「整理員として——」と言いかけて、「はい、なんでしょう」と言い直した。二人とも、職名で自分を呼ぶ習慣がついていた。二人とも、それを台帳の項目外として扱った。
木口の確認事項はN-088に関するものだった。台帳の備考欄に「眼球様の形態」と書かれていたが、廣澤校閲を経た原稿では、その表現が削除されていた。木口はその経緯を確認したかった。「廣澤校閲のご指示で、削除しました」と松田は答えた。
「客観的な観察記録としては、円形構造、と」
「はい」
木口は数秒、黙った。「主査としては、観察者の主観的印象も、記録の一部として残すべきだと思っているのですが」と木口は言った。
「整理員としては、廣澤校閲のご指示に従いました」二人の主語が、職名だった。主査と整理員の対話だった。業務上の判断としては、それで完結していた。完結したあと木口は黙って整理室を出ていった。
松田はその背中を見送った。見送った瞬間、木口の歩く後ろ姿が何かを抱えているように見えた。木口は何も持っていなかった。両手は空いていた。しかし背中が何かを抱えていた。
その「何かを抱えている」感じを、松田は台帳に書かなかった。書く理由が思い浮かばなかった。書いても、誰にも見せない記述だ。書かなくても、業務に支障はない。
書かなかった。書かなかったが、その日の夜、宿舎に戻ってからその背中を思い出した。思い出したことを、書かなかった。
第30話 今泉〔松田の整理台帳〕
七月の終わり、整理室で松田は今泉と短い会話を交わした。業務上の会話ではなかった。整理作業の合間、給湯室で二人が同時に水を取りに行った。松田は紙コップに冷水を入れた。今泉は紅茶を淹れていた。
「N-088、まだ思い出すんですよ」と今泉は言った。ティーバッグをマグカップから取り出している、手の動作の最中にぽつりと言った。松田は紙コップを口元から下ろした。
「眼球の、ですか」
「はい。閉じない、というのが頭から離れなくて」今泉は、紅茶をかき混ぜていた。スプーンが、マグカップの内側に当たる、軽い音。
「思い出すって、どんな時にですか」
「夜、眠る前です」松田は、その答えを聞いた。
夜、眠る前。
松田自身も、夜、眠る前に何かを思い出すことが増えていた。具体的に何を思い出しているのかは覚えていない。しかし、思い出す「気配」がある、ということは、覚えていた。「私もです」と松田は言った。
「眠る前に、何かを思い出すような感覚があります。具体的には、何を、なのか、思い出せないんですが」今泉は、マグカップを両手で持っていた。数秒、黙った。「松田さん」と今泉は言った。
「はい」
「これ、後で松田さんに迷惑をかけるかもしれないんですが——」
「と言いますと」
「八月の頭から、有給を取ろうと思っています」松田は、その言葉を聞いた。今泉が有給を取ること自体は、業務上、なんの問題もなかった。整理室の業務は二人いれば充分に進む。一人が休んでも、業務に支障はない。
しかし、有給を取る理由を今泉が言わなかった。普通、「実家に帰る」「家族の用事」「体調管理」——何らかの理由を、添えるはずだった。今泉は理由を言わなかった。松田も、聞かなかった。
「いえ、お休みは大事です」と松田は言った。
「ありがとうございます」今泉は、紅茶を一口飲んだ。飲んでから、別のことを続けた。
「松田さんも、必要なら、休まれた方がいいです」
「ありがとうございます」
「整理員として、必要だと感じたら、です」「整理員として」と今泉は言った。松田はその言葉を自分の中で確認した。今泉が整理員という主語を使った。今泉も、自分のことを職名で呼ぶことが最近増えていた。
しかし、今泉の「整理員として」は、自分のことを指していなかった。松田のことを、指していた。「整理員としての松田が、必要だと感じたら、休まれた方がいい」と。今泉は松田を職名で見ている。
松田は今泉を職名で見ている。二人とも、自分のことを職名で呼ぶようになっていた。同じ場所で、同じ時期に同じ変化を共有していた。しかし、その変化を、二人とも、確認しなかった。
今泉は給湯室を出た。松田は紙コップをシンクに置いた。空のコップを、しばらく見た。その日、今泉の有給休暇の届出が調査室に提出された。期間:八月二日から八月六日まで。五日間。理由欄:「自己都合」。
中川がその届出を受理した。今泉は、八月二日の朝、整理室を出た。「整理員として、しばらく休みます」と松田に言った。「いってらっしゃい」と松田は答えた。
「いってきます」と今泉は答えた。その「いってきます」が、業務上の挨拶として、適切だったかどうか、松田は、整理上、保留した。判断する必要が、業務手順上、なかった。今泉は、五日後の八月七日の朝、整理室に戻ってきた。
戻ってきたが、整理室での業務が少し変わっていた。今泉の机の上に、新しい手帳が置かれていた。前の手帳とは別の、新しい一冊。中身はほとんど書かれていなかった。新しい手帳に切り替えた、ということだった。
なぜ切り替えたのか、今泉は説明しなかった。松田も、聞かなかった。




