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第28話 名刺〔松田の整理台帳〕

 翌週、廣澤が整理室に現れた。松田は廣澤と直接話すのは初めてだった。会議の場で何度か姿を見たが、近距離で言葉を交わすのはその日が初めてだ。廣澤は整理室のドアを、いつ開けたかわからないままに入っていた。気がついたら、松田の机の隣に立っていた。


 「銭貨の整理ですね」と廣澤は言った。声が、低かったか、静かだったか、松田には判別できなかった。声の高低を判別する余裕が、その瞬間の松田にはなかった。「はい」と松田は答えた。


 廣澤は顕微鏡を覗いた。N-088がまだトレーに残っていた。廣澤はそれを覗いた。顕微鏡から顔を上げた。


 「閉じない眼球の形ですね」と廣澤は言った。松田は廣澤を見た。松田は台帳に「閉じない眼球」と書いた。書いた手帳は机の上にある。しかし台帳の記述は廣澤が閲覧する権限のある書類ではない。廣澤は校閲業務のために報告書本文の原稿は見るが、整理員の作業台帳までは、業務範囲外だ。範囲外のはずだ。


 しかし廣澤はその表現を知っていた。「整理員の主観的印象として、ですね」と廣澤は続けた。「客観的な観察記録としては、円形構造、と書いておいてください」


 「はい」


 「眼球様の形態、というのは削除して構いません」


 「削除——」


 「客観的な観察記録としては、円形構造です」松田は廣澤を見た。廣澤の顔はこちらを向いていた。視線が、こちらに向いているのかどうか、判別できなかった。光の加減で、廣澤の目の色がわずかに暗く見えていた。


 「わかりました」と松田は言った。


 「お願いします」


 廣澤は名刺を取り出した。机の上に置いた。「何かありましたら」と廣澤は言った。名刺は古い和紙のような材質だった。中央に「廣澤」と縦書きで印字されていた。下の名前は印字されていなかった。連絡先の記入欄は空欄だった。


 松田は名刺を受け取って、机の上に置いた。その日の終業時、机を片付けた。名刺がなかった。机の上にあるはずだった。受け取ったあと特に動かしていない。書類の下に挟まったかと思って、書類の山をひっくり返した。引き出しを開けた。床に落ちていないかと机の下を確認した。


 なかった。


 どこにもなかった。松田はしばらくその場に立っていた。受け取った名刺がない。受け取った事実は覚えている。廣澤の手から、自分の手に渡った。手の感触まで覚えている。古い和紙のような材質の、微かにざらついた感触。それを自分の机に置いた動作も覚えている。


 しかし名刺はなかった。松田は台帳を出した。台帳に書いた。「廣澤校閲より名刺を受領。当日中に紛失。記憶を頼りに本記録に留置する」。


 書いてから、名刺の様式を記憶から書き出した。「中央:『廣澤』縦書き」。 「下の名前:印字なし」。 「連絡先:空欄」。 「紙質:古い和紙のような材質」。 「印字インク:黒。紙面に対してわずかに沈み込んでいた」。


 「沈み込んでいた」と書いた瞬間、松田の指先が何かを覚えていることに気づいた。名刺の文字を、指でなぞった瞬間がある。「廣澤」の二文字を、人差し指の腹で軽く触れた。なぞった瞬間に、指先に何かが付着した。


 爪の縁を見た。今、見ている。今この瞬間、机の上で左手の薬指の爪の縁に、黒い粉のようなものが薄く残っていた。松田は爪を確認した。


 黒い粉はもうほとんど見えない。蛍光灯の下で、よく見ないと判別できないほど薄い。しかしある、ような気がする。爪を、洗わなかった。


 洗うべきだったかどうかを、判断する気が起きなかった。台帳を閉じて、整理室を出た。その夜、宿舎に戻ってから左手の爪を洗面所で何度か洗った。洗うたびに、爪を確認した。粉のようなものはもう確認できなかった。


 しかし爪を見ている自分の指の感覚に、何かが残っているような感触があった。その感触を、台帳に書かなかった。書く気が起きなかった。

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