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第27話 閉じない眼球〔松田の整理台帳〕

 七月の半ば、銭貨の整理に入った。現場の床面下から出土した銭貨の小片がトレーに並んでいた。N-076からN-094まで、十九点。寛永通宝の破片、無文銭、銅鏡片らしき小片——分類が確定していないものが多かった。


 松田はピンセットで一枚を取り上げた。倍率の小さな実体顕微鏡で観察した。銭貨の方孔の周辺に、変色した斑点が見えた。鋳造時の不均一とは違う、後から付着した何か。土壌中の鉱物との化学反応の可能性もある。倍率を上げた。


 四十倍。


 方孔の縁に、丸い形のものが見えた。円形。直径は推定〇・二ミリ。中心がわずかに凹んでいて、輪郭がぼやけている。


 球体ではない、と松田は判断した。平面上の円だ。しかしその円を見ているうちに、円の中心がこちらを見ているような気がした。


 眼球。


 眼球の形に見えた。接眼レンズを覗いている松田の右目と視野の中央の円の中心が視線として向き合っていた。向き合っているということが、最初はただの錯覚に思えた。松田は視線をわずかに横にずらした。視野の中で、円の位置も変わるはずだった。実体顕微鏡は覗き込む角度を変えると視野が動く。試料は固定されていても、覗き手の頭の位置で視野は微妙に変化する。


 しかし、円の中心は松田の視線とずれない。松田が右に視線を動かすと円の中心も、右に動く。左に動かすと左に動く。円の中心が松田の視線を追っている——。


 松田はピンセットを置いた。顕微鏡から目を離して、目をしばたかせる。一回、二回、三回。瞼を開け閉めする身体感覚を、自分の中で確認した。


 しかし、瞼を閉じた瞬間にも、視野の中央に円の像が残っていた。残像、と最初は思った。明るい光源を見たあとに、瞼の裏に残る像。普通の生理現象だ。


 しかし、その残像は松田の瞼を閉じている間も、こちらを見ていた。残像が、視線を持つことは、ない。もう一度、顕微鏡を覗いた。同じ円が同じ場所に同じ大きさで見えていた。


 円の中心の凹みがこちらを見ていた。松田は見ていない方の目で整理室の中を見回した。今泉が別の机で土器片の整理をしていた。松田は今泉に声をかけた。


 「すいません、これ、ちょっと見ていただけますか」今泉は手元の作業を止めて、松田の方に来た。顕微鏡を覗き込んだ。「これ、銭貨の方孔の周辺ですか」と今泉が言った。


 「はい」


 「変色斑があるみたいですが」


 「斑の中の、丸い形のものを見ていただけますか」今泉は数秒、顕微鏡を覗いた。「丸い形——というのはこれですか」と聞いた。指先で、別紙にメモを取りながら、画面上の位置を確認した。


 「中心が凹んでいるところです」


 「ああ、これ、見えますね」今泉が顔を上げた。表情が少し硬かった。「松田さん、これ、見ていて、何か感じませんでしたか」と今泉は聞いた。松田は答えに迷った。


 答えに迷ったということは、何かを感じていた、ということだ。感じたことを、業務上、どう報告すべきかがわからなかった。「眼球の形に、見えました」と松田は言った。今泉は数秒、黙った。


 「私もです」と今泉は言った。


 「閉じない眼球の形に見えました。今泉さんも、同じですか」


 「同じです」


 二人は顕微鏡を交互に覗き、同じ円について、同じ表現を選んだ。「閉じない眼球」。別の人間の目に、同じ形が同じ表現を呼んだ。松田は台帳に記録した。


「N-088、方孔周辺の変色斑内に円形構造を観察。観察者の主観的印象として、眼球様の形態。整理員・今泉が独立して同様の印象を申告」。


 「独立して同様の印象」という一行が、台帳に残った。書いてから、松田は今泉の方を見た。今泉は自分の机に戻っていた。土器片の整理を続けていた。背中がいつもより少し丸かった。


 松田の作業に戻った。しかし、その後の作業の中で視野の隅に、円の像が薄く残っていた。顕微鏡から目を離していても、視野の中央——あるいは視野の片隅——のどこかに淡く円形の輪郭があった。書類のページの白い余白を見るとその余白の中に、円が浮かんで見えた。


 整理室の窓を見ると窓ガラスの一点に、円があった。給湯室の蛇口から滴る水滴の中に、円があった。いずれも、物理的に観察できる輪郭ではなかった。視野の側に貼り付いている像だった。


 松田の眼球の側に、円が、貼り付いていた。その日の終業時、整理室を出る前に松田は両手で顔を覆って、目を強くつぶった。閉じたあとゆっくり開けた。閉じる瞬間に、確かに瞼が下りた感触を自分の身体で確認した。


 自分の眼球は閉じる。それが確かなことだった。しかし、瞼を閉じた瞬間にも、瞼の内側に円の像があった。円の中心はこちらを見ていた。


 瞼が、閉じても、見られていた。その夜、宿舎に戻った松田は洗面所の鏡で自分の右目を見た。自分の右目の瞳孔を、覗き込んだ。瞳孔の中心がわずかに凹んでいるように見えた。


 今朝までは、こんな形ではなかった、と松田は思った。しかし、今朝の自分の瞳孔の正確な形を、松田は覚えていなかった。覚えていないことを、確認した。確認したあと洗面所の電気を消した。


 部屋を、暗くした。暗い部屋の中で、瞼を閉じた。瞼の裏に、円があった。円は、暗い部屋の中でかすかに光って見えた。


 眠ろうとした。眠れなかった。眠れない松田を、円が、見続けていた。

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