第25話 確かなこと〔松田の整理台帳〕
六月二十八日、整理室での最初の作業日の夜、松田は自分の宿舎に戻った。調査室から徒歩八分の距離にある単身者向け宿舎。三階の角部屋。冷蔵庫、コンロ、流し台、ベッド、机、本棚——必要なものは揃っていた。松田は到着初日に最低限の生活用品を買い込んでいた。
冷蔵庫を開けた。鮭の切り身が一切れ、買ったままの状態で入っていた。賞味期限は明後日。豆腐が一丁、奥にあった。賞味期限は明日。
松田は鮭を焼くことにした。焼きながら、自分の手を見た。左手の薬指の爪。整っている。子供のころから、爪の形は変わっていない。松田にとって、自分の爪を見るということは、自分の身体の輪郭を確認する習慣だった。整理員の仕事は出土品の細部を観察する仕事だ。観察を始める前に、自分の指先を見る習慣がついていた。
爪の形は変わっていなかった。整理員の仕事は輪郭を確認する仕事だ。自分の指の輪郭が、変わっていないことを毎朝、確認する。鮭を焼いた。皿に盛った。茶碗にご飯を盛った。豆腐を冷奴にして、醤油と生姜を載せた。
食べた。
食事は、丁寧に味わって、二十五分ほどで終わった。食器を洗った。机に向かった。手帳を開いた。
今日のことを書こうとした。「整理員として、初日の作業を確認した」と書いた。書いた字を見た。主語が「自分」ではなく「整理員」になっていた。台帳ではない、私的な手帳の主語まで「整理員」になっていた。
書いた、ということを確認した。訂正しなかった。訂正する理由は思い浮かばなかった。その状態自体を、訂正しなかった。
次のページに、明日の予定を書いた。「N-014以降の整理。今泉さんと打ち合わせ」。書いた「N」の字を、しばらく見た。
「N」と書きながら、頭の中でその音を読んだ。「エヌ」。出土品の通し番号の頭文字。整理員の業務上、毎日何度も書く字。
しかし、書いた「N」を見ているうちに、頭の中の読みがわずかにずれた。「エヌ」ではなく、「ナ」と読みかけた。「ナ」のあとに、続きが頭の中に浮かびかけた。「ナナ——」。
松田はその続きを意識的に止めた。止めた、というのも、止める前に「ナナ」までは、頭の中で響いていた。「これはエヌ番号だ」と自分に言い聞かせた。言い聞かせて、ペンの動きを止めた。「N-014」の数字の「4」を書き終えたところだった。
ペンを置いた。「ナナ」のあとに続いた音は、松田の知らない誰かの名前のはずだった。知らない誰かなのに、頭の中で続きが続きそうになっていた。その続きを、思い浮かべなかった。
思い浮かべる前に、手帳を閉じた。その夜、松田はベッドに入って、すぐに眠った。明け方、夢を見た。夢の内容は覚えていない。覚えていないが、夢の中で誰かが「次の人を呼ぶ」と言っていたような感触があった。実際にそう言われたかどうかは確認できない。
起きてから、その感触を誰にも話さなかった。話す相手がいなかったし、話す内容として整理できなかった。仕事に行った。




