第22話 ピアノ 忘れない〔木口の手帳〕
七月七日の朝、木口は手帳の今週の予定欄を見た。水曜日の欄に、何も書かれていなかった。今週の水曜日は七月五日。すでに過ぎている。過ぎた日の欄が空白でも、業務上の問題はない。
しかし、何かが引っかかった。
水曜日。
七月五日。
その日に、何か——あったはずだ。あったはず、というのは、確信ではない。「気がする」だった。しかし、「気がする」を、書類に書くのは習慣にない。
木口は手帳を閉じようとした。閉じる前に、もう一度開いた。今度は来週の予定欄を見た。水曜日:七月十二日。空白。
「水曜日に何があった」と思った瞬間に、何かの記憶が引き出されてきた。引き出されてきたが、はっきりしない。形がない記憶。
「ピアノ」。
突然、その語が来た。
ピアノ。
誰のピアノ。木口の家に、ピアノはない。妻も弾かない。木口も弾かない。
しかし「ピアノ」が来た。来た瞬間、もう一つ来た。
「ナナミ」。
その名前を、木口は知っている。知っているが、それが誰のことなのか、思い出せない。知らない人の名前ではない。確かに、自分にとって意味のある名前だ。しかし、それが誰なのか、思い出せない。
木口は手帳の今週の水曜日の欄に、書いた。「ナナミ 水曜 ピアノ 忘れない」。
書いた。
書いた字が揺れていた。書いた字の上下がわずかに歪んでいた。木口はその文字列をしばらく見た。「ナナミ」「水曜」「ピアノ」「忘れない」。
「水曜」と書いた。水曜で合っているのかどうかを、確認しなかった。確認しようとすると、確認する先が頭の中になかった。
四つの語を、四つの「自分自身への命令」として、書いた。書いた四つの語が手帳の予定欄に並んでいた。しかし——「ナナミ」とは、誰のことか。わからなかった。
わからない、というのは正確ではない。「ナナミ」は、自分の娘の名前のはずだ。六歳。六月七日生まれ。木口はその事実を事実情報として保持していた。
しかし、娘の顔を思い浮かべようとして思い浮かばなかった。顔の輪郭が頭の中でぼやけていた。目の位置、口の位置、髪の長さ——いずれも、覚えているはずだった。ピアノの発表会のために、母親が娘の髪をいつもより丁寧に結っていたはずだった。先週、木口は娘の隣でその結い方を見ていたはずだった。
しかし、いま思い出そうとして顔が形を取らなかった。名前と年齢と生年月日はある。
顔はない。
木口はその「ない」を、しばらく確認した。確認しながら、自分の手がかすかに震えていることに気づいた。震えた手で、もう一度手帳の四つの語を見た。「ナナミ」「水曜」「ピアノ」「忘れない」。
四つの語のうち、「ナナミ」だけが、文字としては書かれているのに、人物としての中身がなかった。他の三つの語は業務上の意味を持っている。「水曜」は曜日。「ピアノ」は楽器。「忘れない」は決意。いずれも、明確な意味を持つ語だ。
「ナナミ」だけが、空白だった。わからない、と思った。しかし、書いた文字列は消さなかった。消す気が起きなかった。
その夜、木口は宿舎に戻った。妻と短い電話をした。妻の声を聞いた。聞きながら、「ナナミ」という名前を、妻が口に出すのを待った。
妻は「ナナミ」と言わなかった。日常的な会話だった。今日の現場の話、明日の予定の話、夕食の話。会話の中で、木口は、「娘は元気か」と聞こうとして、聞かなかった。
聞こうとして、止まった——その動作を自分で確認した。聞いたとして、妻の答えに自分が想起すべき娘の顔がない。答えを受け取る側に、必要なものがない。なぜ止まったのか、わからなかった。
電話を切った。その夜、布団に入って、手帳を開いた。「ナナミ 水曜 ピアノ 忘れない」の一行を、もう一度見た。見ながら、眠った。
翌日、現場入りの前に宿舎の机で、手帳をもう一度、開いた。昨夜書いた一行を、改めて、見た。「ナナミ 水曜 ピアノ 忘れない」。見ながら、四つの語を主査として業務上の評価対象として分類した。
「ナナミ」——固有名詞。現場の業務上の主体ではない。 「水曜」——曜日。本日の業務報告に関係のない時間指定。 「ピアノ」——楽器。骸ケ谷の発掘案件の関連用語ではない。 「忘れない」——主観的決意。業務記録に保持する根拠なし。
いずれの語も、現場業務との関連がない、と判定した。業務記録としては、保持の必要がない、と判定した。判定したあと消す手順を、想定した。ペンに二重線を引く動作。一語ずつ。「ナナミ」に二重線。「水曜」に二重線。「ピアノ」に二重線。「忘れない」に二重線。
業務記録の整理として、合理的な手順だった。ペンを取り上げた。ペン先を、「ナナミ」の上に、合わせた。しかし、線を引く前に手が止まった。
止まった理由を、業務上の判断として確認した。確認できなかった。手帳の余白に、別の項目として書いた。「右記四語、業務記録としての評価:保持の必要なし。ただし、消去の手順は、本日、保留」。
保留の理由を、書こうとして書かなかった。保留の理由が業務上の言葉で整理できなかった。ペンを置いた。手帳を閉じた。
現場の野帳を取り出した。本日の業務に、入った。




