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第16話 七月の解読〔木口の現場日誌〕

 七月七日の午後、解読担当者から木口に直接の電話があった。現場小屋の固定電話が鳴った。木口は出土品の整理リストを確認しているところだった。受話器を取った。


 「解読担当の——」と相手が言った。名前を名乗らなかった。これまで解読担当者が名前を名乗ったことは、一度もなかった。木口は名前を聞いていなかった。聞こうとしたかどうか、確認できない。


 「お疲れさまです」と木口は答えた。


 「木簡四枚のうち、第三枚まで暫定的な読み下しが出来てきています」


 「ありがとうございます」


 「ただ——」


 相手の声がわずかに止まった。声の高さが微妙に変わっていた。最初の名乗りのときの声と「ただ」と言ったときの声と、間に半オクターブほどの差があるように、木口には感じられた。半オクターブというのは感覚的な表現だ。実際には、わずか数ヘルツの違いだったかもしれない。しかし、何かが変わっていた。


 「内容について、確認させていただきたいことが」と相手は続けた。


 「はい」


 「現場の調査の進行状況と解読の内容が、対応している、ように見えるんですが」


 「対応している、と言いますと」「第一枚に『地の名を持ちて至る』とあります。これは、土地の名を呼ぶ慣例があった、ということを示しているように読めます。発掘開始時に、現場で土地の名を呼んだ、というご記録がありましたよね」


 「はい。地元の慣例で」「第二枚に『来たる者は記す』とあります。これは、調査者が記録を取る行為を指している、と読めます」木口は受話器を耳に当てたまま、黙った。黙ったということを、解読担当者が察したかどうか、わからなかった。電話の向こうで、解読担当者の呼吸がわずかに聞こえた。


 「第三枚に『呼ばれたる者 既に内にあり』とあります。これは——」「これは」と木口は促した。


 「呼ばれた者が、すでに谷の内側にいる、と読めます」


 「読めます、というのは」


 「あくまで、暫定的な読み下しです。複数の解釈が成立し得ます」


 「複数の解釈、というのはたとえば」「『内』というのは、物理的な内側だけではない可能性があります。記録の内側、と読むこともできます。記録された者は、記録という構造の内側に、すでに入っている、と」木口は、その読み方をしばらく考えた。考えながら、自分が何を考えているのかを確認した。


 考えていたのは現場の関係者の名前だった。誰が「呼ばれた者」になりうるのか。木口、野田、三宅、塚崎、松田——そして、解読担当者自身。解読担当者自身が「呼ばれた者」になりうる。


 その読み方を、木口は電話の向こうに伝えなかった。「第四枚の解読は進んでいますか」と木口は聞いた。


 「進めていますが、字体が複数時代に混在していて、思うように進みません」


 「混在、というのは」「同じ木簡の中で、奈良時代の書体と室町期の書体と近世初期の書体が混在しているように見えます。これは、通常はあり得ないことです」


 「層位的にはどうですか」「第四枚は出土層が最も深い場所からの出土と聞いています。深度約七・二メートル。層位的には、最古層に位置するはずです。しかし字体は最も新しい時代のものが混じっています」「逆」だ、と木口は思った。


 地層も、木簡も、逆だ。深い方が新しい。しかし、その「逆」を、解読担当者に伝えなかった。伝える理由がなかった。


 「引き続き、お願いします」と木口は言った。「ひとつ、確認させてください」と解読担当者は言った。


 「はい」


 「報告書の様式について、です。最終段階で、解読結果の報告書をそちらにお送りします。様式は本調査室の標準でよろしいでしょうか」


 「結構です」


 「形式の問い合わせ、ということでしょうか」と木口は確認した。


 「いえ」と解読担当者は言った。「すでに、ひな形は出来ております」ひな形は出来ている、と相手は言った。解読作業はまだ第三枚までしか進んでいない、というのが五分前の報告だった。第四枚は判読困難で、字体の混在から年代の整合性が取れない、と。


 しかし、報告書のひな形はすでに出来ている。木口はその差を、確認しようとして確認しなかった。確認すべきことではない、という気がした。「お願いします」と木口は言った。


 電話が切れた。木口は受話器を置いた。受話器の重みが、いつもより、わずかに重かった気がした。手帳に書いた。


 「解読担当者より連絡。木簡解読の進捗報告。報告書のひな形、既に作成済みとのこと」。書いた字を、しばらく見た。


 「既に作成済み」という一語が、紙の上でわずかに浮いて見えた。木口は手帳を閉じた。その後、七月の中旬から下旬にかけて、解読担当者からの中間連絡が数回あった。各回の連絡は進捗の報告だった。第四枚の字体の判読が、徐々に進んでいる、という内容。


 しかし、各回の連絡で解読担当者の声の質がわずかに変わっていた。最初の七月七日の電話では、声に張りがあった。中間段階を経るたびに、声の張りがわずかに失われていった。最後の連絡——七月十九日の電話——では、解読担当者はこう言っていた。


 「報告書を、本日、発送しました」


 「報告書、と言いますと」


 「四枚分の最終報告書です。郵送で、明日には届くと思います」木口は、受話器を耳に当てたまま、黙った。第四枚は、判読困難だ、と前回の連絡で聞いていた。完成していないはずだった。


 「第四枚の最後の一行は」と木口は聞いた。


 「読めました」


 「読めた、と」


 「読めたというよりは書かれていた通りに原稿に転記しました」書かれていた通りに、原稿に転記した、と解読担当者は言った。解読は、解読者の解釈を経て、書き起こされる行為のはずだった。書かれていた通りに転記する、というのは、解読ではなく、写しの作業に近い。「明日、お読みいただければ、ご理解いただけると思います」と解読担当者は言った。


 「了解しました」と木口は答えた。電話が切れた。木口はその通話を手帳に書き留めた。「解読担当者、最終報告書を発送と申告。明日着予定。第四枚の最後の一行は『書かれていた通りに転記』」。


 書いた事実が手元にあった。

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