骸ケ谷 既往記録抄(一)
廣澤文彦 編
以下は骸ケ谷の地に関する既往記録の抜粋である。当地の調査に先立って、関係者は本記録を一読されたい。関係者の範囲は本調査に関与する一切の者を含む。本記録を一読された者はその時点で関係者である。
(一) 『下総国地誌』明治二十一年刊 所収「埴生郡誌」より抄
骸ケ谷ハ、埴生郡ノ南端ニ位置スル。両側ノ丘陵ニ挟マレ、谷底ハ南北凡ソ二町、東西半町ニ及バズ。地質ハ砂質ニシテ、湧水アリ。古来、人住マズ。
地脈ニ異アリト言フ。土地ノ古老ニ問ヒシニ、「呼バレタル者ハ入ル」ト答ヘタリ。其ノ意ヲ詳ニ問ハント欲シシモ、古老答ヘズ。退去セリ。
近郷ノ氏神社ニ参詣シ、宮司ニ問ヒシニ、宮司答ヘズ。退去ヲ求メラレタリ。以テ此ノ地ニ関スル聞書ノ採取ハ、極メテ困難ナリト判ズ。調査者註:当地ニ関スル既往ノ記録、官私ヲ問ハズ甚ダ稀有ナリ。今後、関係者ハ自主的ニ記録ノ蓄積ニ努メラレタシ。
[編注]本項の調査者署名なし。明治二十一年の地誌編纂は複数の村役場および郷土史家の合議によって行われていた。署名のない記録は、当時、別の責任者の手によって編纂された可能性が指摘される。
(二) 『骸ケ谷踏査記録』大正十一年九月 廣澤文彦 稿
骸ケ谷の地に踏査を試みた。九月初旬の三日間、谷底および両側斜面を踏査した。地表植生は両側斜面と谷底とで明らかに様相を異にする。両側斜面はクヌギ、コナラ等の落葉広葉樹が密生し、谷底は雑草が主で低木の発達が見られない。日照条件の差では説明し難い植生分布である。
谷底中央部に、湿地状の窪地が存在する。窪地の水位は季節を通じて変動が小さいとされる。地下水の流向については、現地観察の範囲では確定し得ぬ。地表勾配と地下水流向の整合性について、後日、専門の地質家による精査を期待する。
地表面における人為遺構の痕跡は認められぬ。しかし谷底中央部の窪地から、人工物と推定される角質片を数点採取した。当地に古来人住まずとの伝承と人工物の存在とは、整合せぬ。近郷の古老に聞取りを試みたが、応答を得難し。明治二十一年の調査者と同じ困難に遭遇したと記す。
古老の一名は踏査者に対し次のように述べた。「あの谷は、探すものではない。届いたとき、既に入っている」。文意は明瞭ならず。踏査者は「届く」の主語、および「入る」の主体について、追加の質問を試みたが、古老は答えず、退去せり。
以上を、当地に関する記録の一として本書に留置する。大正十一年九月 廣澤文彦
[余白書き込み] 谷は、探すものではない。 "それ"が届いたとき、既に入っている。
[編注]本書第二項末尾の余白書き込みは本稿の校正段階で記入されたものと推定される。書き込みの筆跡は、本稿執筆者と同一とは言い難い。書き込みの内容は、本稿本文中の古老発言を現代語に書き換えたものとして読み得るが、書き換えた者の身元については確認の方法がない。当該書き込みは、本『既往記録抄』編纂時に、原本のまま転写した。読者の判断に委ねる。
なお、本項の末尾の踏査者署名は、原本のコピー版において、「文」の一字より以降が判読困難である。原本の保管状態の経年劣化と推定される。本『既往記録抄』編纂者の判断により、「廣澤文彦」と補完して転写した。判読可能な範囲では、「廣澤 文」までである。
「文」の一字の右側には、墨とは異なる、赤みを帯びた繊維状の濃淡が残っていた。本『既往記録抄』編纂者は、これを紙のほつれとして「文彦」と補完したが、補完後も違和感は拭えなかった。
当該補完は編纂上の便宜による。読者の判断に委ねる。
(三) 『某調査記録(一部)』昭和二十四年三月 調査者名伏字
骸ケ谷の地について、某省より調査の依頼を受けた。詳細を記すことは差し控える。調査の主目的は戦中期に当地で発生したとされる「複数名の所在不明事案」に関する確認であった。所在不明者の氏名、職分、所属、家族関係について、関係機関より照会の協力を得ようとしたが、いずれの照会先からも、適切な回答を得られなかった。
所在不明事案の発生件数について、複数の証言と公的記録との間に乖離が認められる。証言によれば十数件、公的記録によれば三件の届出があった。乖離の原因について、現地での確認は困難であった。調査の過程で、調査担当者の一名が当地での作業中に所在不明となった。残された者により、退職の手続きが取られた。詳細は関係機関にて記録されている。
以上の事項は、関係者以外には開示せぬものとする。本記録は、後日の参照に資するため、本『既往記録抄』に抄出して残す。
[編注]本項の調査担当者名は原本において伏字となっていた。本『既往記録抄』編纂時に、伏字のまま転写した。所在不明となった調査担当者の氏名についても、原本において伏字であった。同様に、伏字のまま転写した。




