第10話 雨〔木口の現場日誌〕
骸ケ谷の発掘現場が開設されたのは令和五年六月七日の朝だった。千葉県北東部、低い丘陵地帯の谷あいだった。地形図上は谷というよりは緩やかな窪地で、両側の斜面の高低差は二十メートルほどだった。窪地の底に発掘区画を設置することになっていた。区画の総面積は約一千二百平方メートル。設定図によれば、地表からの掘り下げ深度は最大十二メートル。発掘期間は六月から九月までの三か月。
六月七日の朝、現場主査の木口照彦と調査員三名——野田彩乃、三宅辰実、塚崎良太——が現場に入った。地元自治体の文化財担当者の立会の下、発掘開始の儀礼的な手順を行った。簡素な祭壇を一時的に組んで、土地の守り神に作業の安全を祈った。文化財担当者が地元の慣例として「土地の名を呼んで挨拶する」と言って、谷の方向を向いて二礼した。「骸ケ谷さん、よろしくお願いします」と声に出して言った。
木口はその地元慣例を、現場日誌に書きながら、何かが気になった。「土地の名を呼ぶ」。誰の名を呼ぶ、というのと土地の名を呼ぶ、というのは、違うはずだ。土地に名があるとして、その名を呼ぶ行為は——呼ばれた土地が応答する、という発想を文化として前提にしているはずだ。
木口はその違和感を日誌の備考欄に書いた。「土地の名を呼ぶ慣例、興味深い」。それ以上は書かなかった。書くべきことがほかにあった。
午前十時、最初の掘削を開始したところ、地表から六十センチほどで最初の異常が現れた。掘削した穴に、水が湧いた——その湧き方がおかしかった。穴の底から、地下水が滲み出すように湧いてくる——というのが通常の地下水の湧き方だ。底面の凹凸に、薄い水膜が広がる。広がりながら徐々に水量が増えていく。
しかし、その日の穴は、底からの湧出ではなかった。穴の側面、上の方から水が流れ落ちていた。地表の数十センチ下のあたりから、横方向に水が出ていた。流れ落ちる水は、穴の底に溜まり、また側面の上方から補充するように水が出続けていた。
三宅が穴の縁に立って、それを見ていた。「上から水が来ています」と三宅は言った。木口は穴の縁まで歩いた。確かに、水は上から来ていた。穴の側面の、地表から二十センチほど下のあたりに、薄い帯のような水滲みがあった。その帯から、ゆっくりと水が滲み出して、穴の底に滴り落ちていた。
地下水が地表に近い側から下方に向かって流れている。地表の高い方から低い方へ、というのは水の自然な流れだ。しかし地下水は、本来、地下深層の帯水層から上向きに湧くものだ。下向きに「滴り落ちる」という構図にはなりにくい。地下水が下向きに流れているならば、その上にさらに水源がある、ということになる。
しかし、穴の真上は地表だった。地表に水たまりはない。雨も降っていない。木口は穴の中に降りた。
しゃがんで、滴る水を指先で触れた。冷たかった。普通の地下水の冷たさだ。指先に、土の粒子がわずかに付着した。掘りたての土の、湿った匂いが、木口の鼻に届いた。掘削断面から立ち上がる、粘土と腐植土の混じった匂い——現場では、毎日この匂いの中で作業する。十年以上、嗅いできた匂いだった。
しかし、その日の匂いには、別のものが、ごく薄く、混じっていた。古い和紙のような、乾いた匂い。地下水の上向きの蒸気の中に、その匂いが、薄く含まれていた。舐めなかった。地下水を口に入れる訓練は受けていない。しかし、見たところ、ごく普通の地下水だった。鉄分の臭いも、硫黄の臭いもなかった。透明だった。
木口は穴から上がった。「測量班に連絡。地下水の流向確認を依頼します」と野田が言った。「お願いします」と木口は答えた。
その日、測量班から速報があった。地下水の流向が、地表面の標高と逆向きに動いている可能性が高い、と報告された。詳細な調査が必要、と但し書きが付いていた。木口は現場日誌に書いた。
「地下水流向、地表標高と逆向きの可能性。詳細調査依頼中」。書いた字を、長く見た。「逆向き」という言葉を、現場日誌に書くのは十年ぶりかもしれない。「逆向き」という事象は、現場では稀だ。地下の自然現象は物理法則に従う。逆向きの地下水流——というのは特殊な地下構造の場合に限られる。
骸ケ谷はその「特殊な地下構造」だった。その時点では、まだそれだけだった。
午後三時を、木口は穴の縁で過ごした。測量班との連絡が続いていた。手帳は作業着の胸ポケットの中にあった。開かなかった。
その夜、宿舎に戻ってから妻に短い詫びの電話をした。発表会に、行かなかった。娘は最後まで客席の入口の方を見ていた、と妻は言った。責める声ではなかった。責める声ではない、ということがいちばん応えた。「先生が、七月の最後の土曜日にもう一度小さな会を開いてくださるって」と妻は言った。「今度は行く」と木口は答えた。答えた声を、自分で確認した。電話を切ってから、手帳の七月の最後の土曜日の欄に、書いた。「発表会 行く」。
同じ夜、手帳の私的な記述欄に現場日誌に書かなかった一行を書いた。「水が上から落ちている。逆向きだ」。書いてから、その一行をしばらく見た。書いた手の影が紙の上にあった。書いた跡が自分の手元にあった。




