第9話 現場入り前夜〔木口の手帳〕
六月六日の夜、木口は宿舎で翌日の現場入りの準備をしていた。現場の場所は千葉県北東部の埴生郡の谷あい。木口の自宅から、車で約一時間半。宿舎は現場から徒歩八分の単身者向け宿舎。発掘期間中の三か月間、平日はこちらに泊まる予定だった。
荷物を整理した。野帳、筆記具、現場用の作業着、安全靴、ヘルメット。基礎的な現場道具を、リュックに詰めた。既往記録抄を、最後に詰めた。
会議で配布された冊子。木口は五月十五日以降、毎晩、少しずつ読んできた。全四十ページ。半分以上を、読み終えていた。
最後の項目——(五)平成期予備調査記録——だけ、まだ読んでいなかった。その夜、宿舎の机で、(五)を読むことにした。平成十七年度の予備調査の要旨。地表踏査、表土サンプリング、地中レーダー探査の概要。技術的な記述が中心だった。
その記述の中で、ある一行が目に留まった。「予備調査の過程で、調査担当者の一名が、当地での作業中に体調不良を訴え、調査から離脱した。離脱した担当者はその後の所在が確認されていない」。平成期の予備調査で、調査担当者の一名が所在不明になっている。
木口はその一行を何度か読んだ。「体調不良を訴え、調査から離脱した」——のあとに、「その後の所在が確認されていない」と続く。離脱した担当者がその後どうなったか——調査記録に書かれていない。通常、職員の所在不明は人事的に大きな問題だ。記録に詳細が残るはずだ。
しかし、既往記録抄にはその後の経過が書かれていなかった。木口は、もう一行、目に留まった。「詳細については、本調査室の関連記録を参照されたい」。関連記録——というのは、本調査室の書庫の中の、過去案件のファイルを指している、と読めた。
木口は、明日の現場入り後に調査室で関連記録を確認しよう、と思った。思って、手帳に書いた。「平成期予備調査の関連記録を確認」。書いた字を、しばらく見た。
書いた事実が手元にあった。書きながら、別のことも、思い出した。昨日、妻と電話で明日の現場入りについて話した。妻は「初日、ちゃんと挨拶してきてね」と言った。木口は「うん」と答えた。
その「ちゃんと挨拶」というのが、何への挨拶なのか——を木口は確認しなかった。現場の関係者への挨拶か、土地への挨拶か、それとも別の何かへの挨拶か——。確認する必要はなかった。「うん」と答えた、それだけで十分だった。
手帳の今週の予定欄を、確認した。六月七日 水曜日 現場入り。 六月八日 木曜日 ……。 六月九日 金曜日 ……。
水曜日の欄に、「現場入り」と「ピアノ発表会」が、両方、書かれていた。書きながら、両方を同時に出来るかどうか、考えていた。発表会は午後三時から。現場入りは午前中。両方、行ける可能性はあった。
しかし、現場の初日の状況によっては、午後の予定がずれる可能性もあった。木口はピアノ発表会の文字の横に別の字で書き加えた。
「行く」。
書いた字を、見た。「行く」と書いた。書いた事実が手元にあった。行けるかどうかは別の問題だった。書いたという事実だけが確かなことだった。
翌朝、車で現場に向かう前にもう一度手帳を開いた。水曜日の欄に、「現場入り」と「ピアノ発表会」と「行く」が、書かれていた。木口は手帳を閉じた。車のエンジンをかけた。
現場に向かった。車の中で、ラジオをつけた。ニュースが流れていた。天気予報が続いた。
「本日の千葉県は、午前中は晴れ、午後は所により雨。」木口は、その天気予報を確認した。
晴れ、雨。
二つの天候が同じ一日に混じる予報。しかし、その予報を木口は現場の野帳の天候欄にどう書けばいいかを考えなかった。現場に着いたら、その時の天候を書く。書いた事実だけが確かなことだった。




