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漂流する微睡み  作者: 廉価広也


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第4話:広場恐怖症の疑いにより、職務を忘却した気象観測員 (3)

昔、荘周は夢の中で蝶となった。


ひらひらと軽やかに舞う蝶であり、己の志のままに、実に愉快に生きていた。

自分が荘周という人間であることなど、微塵も意識していなかった。


不意に目が覚めると、

驚いたことに、そこにいたのは紛れもない己、荘周であった。


果たして、自分が夢の中で蝶になっていたのだろうか。

それとも、今の自分は、蝶が見ている夢の中の荘周なのだろうか。


――どちらが現実で、どちらが虚構なのか、僕にはもう分からない。

湿った革靴が、砂利を踏むたびに不快な音を立てる。


山頂にたどり着いたオットーは、荒い息を整えながら、目の前の奇妙な建築物を見上げていた。


鉄骨の展望台を備えた、レトロなコンクリート造りの建物。


高熱に浮かされる頭を鼓舞し、重い風呂敷包みの弁当を抱え直す。


木製の重厚な扉へと歩を進めた。


扉の脇に取り付けられた真鍮の銘板には、こう記されていた。


『気象庁 国分寺測候所』


オットーは冷たい金属のドアノブに手をかけ、回そうとした。


――動かない。


彼が夢に見たあの男は、外出する前に鍵をかけ忘れるほど間抜けではなかったらしい。


オットーはため息をつき、ズボンの右ポケットを探った。


(……ない)


反対側のポケット。


(ここにもない)


ならば、とスーツの胸ポケットに手を突っ込む。


ヴィンテージの革財布と一緒に、ようやく目的の鍵が指先に触れた。


真鍮の鍵穴に差し込む。


内部のデッドボルトの抵抗を感じながら、時計回りに強くひねる。


――ガチリ。


重苦しい金属音と共に、ドアロックが外れた。


オットーは安堵の息を漏らした。


ノブを回すと、錆びついた鉄の蝶番がひずんだ悲鳴を上げ、乾いた空気の密閉が破られる。


足を踏み入れた先は、冷たい灰色のリノリウム床だった。


古い記録紙の匂い。


熱を持った真空管トランスから漂う、イオン化した埃の金属臭。


外の虫の音や、風に揺れる田んぼの気配は完全に遮断されている。


暗い部屋には、ただ圧倒的な静寂だけが居座っていた。


熱による眩暈に耐えながらも、オットーは少なくともこれからしばらく過ごすことになりそうなこの場所を見て回ることにした。


部屋の中央に鎮座するのは、鋼鉄製パネルの巨大なデスク。


そこには気象庁仕様の、円形の暗いCRTレーダースコープが埋め込まれている。


湾曲したガラス画面は、触れると冷たかった。


今のオットーには、この計器の動かし方など微塵も分からなかったが。


埃の舞うアクリルケースの奥では、真鍮の円筒が機械式のゼンマイ仕掛けで静かに回転している。


精密なカウンターウェイトの付いた金属アーム。


その先にあるガラスのインクペンから、薄れかけた紫の染料が滴り、方眼紙のロールへ完璧な水平のグリッド線を刻み続けていた。


国防色の無骨なスチールデスク。


その上には、重厚なベージュ色の黒電話と、機械式のテレックス端末。


トレイにセットされた2枚複写のザラ紙ロールは、今は何も印字されず、沈黙を守っている。


コルクボードには、手書きされた香川県の大きな季節気候図がピンで留められていた。


その横には、気象庁の公式な勤務割当表。


1986年7月のシフト表に書かれた名前は、たった一つだけだった。


――佐藤。


(待て……佐藤?)


奇妙な予感に駆られ、オットーは中央の図面だらけのデスクに風呂敷包みを置いた。


そうして、先ほどの革財布を開いた。


中には身分証明書。


短髪の、軍人気質な顔立ちをした男の写真。


そこには『佐藤 賢二』と記されていた。


その瞬間だった。


不意に、奇妙な実感が訪れた。


それまで感じていた違和感がふっと薄れた。


自分は佐藤賢二なのだ、と。


国分寺測候所で七夕祭りの気象監視を任された気象官。


寡黙で軍人肌だが、面倒見の良い男。


だが同時に、自分が本物の佐藤賢二ではないこともはっきり分かっていた。


その感覚はひどく圧倒的だった。


気象官としての専門知識の記憶はひどく朧気おぼろげだ。


代わりに脳の深層に居座っているのは、スプレッドシートの思考枠組みまで含めた、21世紀のコーポレート・アナリストとしての記憶だった。


そうだ。


自分の名前はオットーだ。


だが少なくとも今は、佐藤なのだ。


実に妙な気分だった。


幸いなことに、この測候所には彼が残した日誌や個人ノートがある。


(……まあ、少しくらいなら詰め込めるだろう。七夕祭りまではまだ数日ある。必要な報告書さえ間に合わせれば何とかなるはずだ)


熱の苦しさすら忘れ、佐藤は日誌とノートに目を通しながら、その夜を明かすことに決めた。


ちょっと気になったんですけど、みなさんが最後に「自分以外の誰か」として夢を見て、それを何の疑問も持たずに受け入れてたのっていつですか?

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