第3話:広場恐怖症の疑いにより、職務を忘却した気象観測員 (2)
――また、ベランダに一人。
オットーは、湿った夜気へと溶けていく長い息を吐き出した。
ガラス窓の向こうからは、『時空戦士スピルバン』のくぐもった音声が鳴り響いている。
その奇妙に懐かしい響きだけが、今の彼を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「観測所、か」
オットーは自らの足元へ視線を落とした。
きれいにプレスの当てられたスラックス。
黒く輝く革靴。
(……俺を『宇宙物理学者』とでも思っているのか?)
皮肉な現実だった。
元の世界での俺の視線は、デュアルモニターの水平フレームから上に動くことなど滅多になかったのだ。
天体観測などという、大層な仕事とは無縁の男。
オットーはため息をついた。
自身の衣服に、ある「記章」が縫い付けられていることにも気づかずに。
「お待たせしました、オットーさん!」
横の引き戸が滑るように開き、サキがベランダへと姿を現した。
室内用のスリッパは頑丈な藁草履に履き替えられ、その手には古びた竹編みの提灯が握られている。
和紙の覆いの向こうで揺れる琥珀色の炎が、砂利道に長々と、流動的な影を落とした。
「母に言って、田んぼの脇を通る近道を教えてもらうことにしたんです。川を渡るルートです」
短髪を弾ませて庭へと踏み出すサキ。
その顔には、飾りのない明るい笑みが浮かんでいた。
「母が、ご飯を抜いちゃダメだって念を押してました。オットーさんはあの丘の上で働きすぎです。いつも書類や機械ばかり睨みつけて」
「あ、そうだ。そのお弁当の箱、いくつか持ちますよ」
「あ、ああ……そうか。ありがとう」
オットーはぎこちなく残りの重箱を持ち直し、口ごもった。
この鄙びた田舎の風景の中で、窮屈なフォーマルシャツと硬いスラックス姿の自分は、どうしようもなく浮いている。
だが、彼はその気まずさを隠すように、染み付いた「社畜の仕草」で静かに一礼した。
「こちらです」
弾むような声。
歩調に合わせて、サキの提灯が規則正しく揺れる。
温かな民家の明かりから遠ざかるにつれ、一九八六年の地方特有の「純粋な闇」が二人を包み込んでいった。
ネオンサインもなければ、遠い高速道路の駆動音もない。
世界の輪郭を濁らせる都会の光化学スモッグも存在しない。
静寂は密度を増し、ただ揺れる水田の奥深くから、蛙たちの合唱だけが重々しく響いていた。
道の端に達したとき、激しい水の音が耳に届いた。
川幅はそれほど広くない。
だが闇の中のそれは、大地を切り裂く水銀の帯のように見えた。
水は異常なまでに澄んでいた。
夜空の底でありながら、天の川の圧倒的な輝きに照らされ、川底に眠る滑らかな白い石の姿がはっきりと視認できる。
「気をつけてくださいね、オットーさん。石が少し滑りやすくなってますけど、砂利が厚いところを踏めば、靴でも滑りませんから!」
サキは躊躇うことなく水に入り、浅い流れを足首に浴びていた。
オットーは岸辺で立ち止まり、磨き上げられた革靴を見つめた。
そして静かに諦めの溜め息をつくと、靴と靴下を脱ぎ捨て、冷たい水の中へと一歩を踏み出した。
冷たい。
火照った皮膚を刺激し、霞んだ頭を覚醒させるには十分な冷気。
だが、驚くほどに心地よかった。
川床の中央は、奇妙な平衡感覚をもたらした。
水はオットーの脛まで達し、黒いスラックスの裾を濡らそうと脅かしてくる。
彼はサキの提灯が落とす、揺れ動く琥珀色の光の輪だけを凝視し、足場を確保した。
「最近、村がすごく静かなんです」
預かった木箱を器用に抱え、サキがせせらぎの音に声を乗せた。
竹提灯を握り直し、彼女は行く手にそびえる山の黒いシルエットを見上げる。
「でも、年寄りの人たち――特に和夫のじいちゃんが、何だかそわそわしてて。今年の夏の暑さは何かが違う、重苦しいって。私にはよく分からないんですけど……分かります、オットーさん?」
背筋に、冷たい「幻肢痛」のような感覚が走った。
会社組織という場所において、上司が未確定のプロジェクトについて曖昧なニュアンスを口にしたとき、パニックになってはならない。
ただ頷き、相手の言葉をオウム返しにし、時間を稼ぐ。
それが鉄則だ。
「高気圧が停滞しているときは、大気の状態が視覚的な印象とは異なることがありますから」
オットーの口から、訓練された無機質な広報用のトーンが自動的に滑り出た。
「観測所でも、推移は綿密に監視しています」
男は流暢に言葉を紡いだ。
宇宙物理学者が何をするものかなど知る由もないが、今はただ、他者の期待に沿った「物語」を提供すればいい。
サキがわずかに首を振った。
提灯の光の中で、その目元が心からの安堵に和らぐ。
「やっぱり、みんなに言った通りだ。『オットーさんは上ですごい望遠鏡やレーダーを見てるんだから、ひどい嵐や日照りが来るなら、絶対に早く教えてくれる』って。みんな頼りにしてるんです、オットーさん。来週は七夕祭りもありますし」
「……善処します。村の方々が不意を突かれることのないよう」
オットーは喉の奥が締まるのを感じた。
彼女の言葉の重量は、腕の中にある木箱よりも遥かに重い。
彼はもはや、奇妙な悪夢に迷い込んだ「ただの過労気味のサラリーマン」ではいられなかった。
この世界の人々にとって、彼は突如として、空の脅威から身を守るための盾に仕立て上げられたのだ。
川の北岸、砂利の広がる場所に到達した。
山の本格的な登り口にあたるこの場所は、松脂の匂いと湿った土の香りが混ざり合い、空気が一層冷たく感じられる。
オットーは乾いた草地に立ち、岩の上に弁当箱を置くと、足の裏の砂利を払って靴下と革靴を湿った足に履き直した。
サキは木々の境界線で立ち止まり、提灯を掲げて闇の奥へと続く細い山道を照らし出した。
彼女は抱えていた食料の箱を、彼の腕の中へ丁寧に積み上げる。
「尾根道の提灯は点いてますから、ここからでも山頂までの道はよく見えるはずです」
オットーがお礼と言い訳を口にするより早く、サキは夏のブラウスの深い袖口から、荒縄で縛られた小さな包みを取り出した。
「これ」
彼女は微笑み、風呂敷の隙間にそれを押し込んだ。
「母が最後に持たせてくれたんです。二年前の夏に漬けた、うちの梅干しです。夜勤中にまた熱が出たら、酸っぱいもので頭がすっきりするからって」
その些細な気遣いが、肉体的な衝撃となってオットーを打った。
東京において、体調不良とは「自動送信のメールスレッド」であり、「チームの他メンバーへの負荷」を意味していた。
だがここでは、自身の疲弊に対して、手包みの民間療法と本物の、静かな共感が返ってくる。
「……ありがとう」
オットーの声が、わずかにかすれた。
「お母様にも、よろしくお伝えください」
「良い観測の夜を、オットーさん!」
サキの声が響く。
彼女はすでに、煌めく川辺へと足を引き返していた。
天の川の広大な輝きの中に縮小していく彼女の背中が、遠い民家の温かな光へとゆっくり戻っていく。
「さて……ルート通りに進むべきか」
重い弁当箱を抱え直し、オットーは自問した。
そして、足を動かし始める。
道は狭く、そびえ立つ古参の杉の木々に遮られ、空の輝きは届かない。
数十メートルおきに設置された、木柱に固定された低ワットの電灯が、地面に青白い円錐形の光を落としている。
それが、濃厚な影を辛うじて押し止める唯一の光だった。
登るにつれて、肉体的な消耗が牙を剥き始めた。
どうやら、二十一世紀のマンションで経験したあの「発熱」は、この肉体にも引き継がれているらしい。
尾根の中腹で道が平坦になり、小さな開けた場所に辿り着いた。
オットーは息を整えるため、道端に佇む苔むした石碑に肩を預けた。
焼けるような肌に、石の異常な冷たさが突き刺さる。
ようやく、自分自身の姿をまともに観察する余裕が生まれた。
熱の籠もったドレスシャツに風を通そうと、ネクタイを緩めようとしたその瞬間。
彼の思考が凍りついた。
――感触が、完全に違う。
それは、東京の満員電車で身につけていた、あの安っぽく薄いシルクのタイではなかった。
硬く、強固な畝織り(うねおり)が施された、驚くほど頑丈な生地。
まるで軍部や、国家機関の支給品のような質感。
眉をひそめ、街灯の薄暗い光線の下で、オットーは自身の胸元を見下ろした。
スーツの上着に並ぶボタンは、サラリーマンの私服に見られる半透明のプラスチックではない。
重量感のある金属製。
夜の闇の中で、鈍い真鍮色の光を反射している。
親指で一番上のボタンの表面をなぞる。
冷たい金属の奥深くに、鋭利で様式化された「旭日(日章)」の紋章が刻印されていた。
オットーは、左のラペル(襟)へと慎重に指を這わせた。
仕立ての良い、厚手の生地を留めていたのは、一本の磨き上げられた銀色のバッジ。
彼は低ワットの電灯へと体を傾け、胸元に光を当てた。
青白い光の中に、金属ピンに刻まれた鋭い、浮き彫りの漢字が浮かび上がる。
――【気象庁 国分寺測候所】
急激な理解の奔流が、氷水のように彼を襲い、残されていたあらゆる幻想を粉砕した。
彼はサラリーマンのスーツを着てなどいない。
これは、公式な――【気象庁 夏季制服】だ。
やはり、ここは東京ではない。
そして、自分は宇宙物理学者などではなく、本物の「気象官」だったのだ。
(一体、どんな夢だこれは……?)
自分の生まれた正確な日付(一九八六年七月一日)に目覚め、昭和の気象官の肉体に収まり、なぜか近所の民家のヒューズとテレビを修理している。
オットーはこの一時間に交わしたすべての会話を脳内で反芻した。
その瞬間、パズルの破片が暴力的な勢いで噛み合い始める。
この夢の中の「彼」は、のんびりとした夜の散歩や、単なる近所付き合いのためにこの格好をしていたわけではない。
国分寺の村長、および香川県委員会との公式かつ厳格な「官僚的ブリーフィング」に出席していたのだ。
地域防災体制を確立し、近づく七夕祭りの極めて重要な気象予測を提示するために。
一九八六年の昭和の行政という硬直した世界において、このような高位の会議では、この重厚な正装の着用が法的に義務付けられている。
この男は、国家の命運を分けるような重大な政府会議から直行し、着替える時間もないまま、地元の民家のヒューズ飛びとテレビの故障を直したのだ。
人々が彼に対して、異常なまでの敬意を払っていた理由が、ようやく理解できた。
だが。
それによって、本当の「致命的な問題」が浮き彫りになる。
第一に、なぜ俺はここにいる?
これは本当に夢なのか?
異世界転生だか何だか知らないが、昭和の気象官に憑依するなど、何の冗談だ。
第二に、これからどうすればいい?
元の世界に戻るのか?
このレトロなライフスタイルを享受し、結婚して国のために子供をたくさん育てるのか?
そもそも、二十一世紀の現実へ帰る選択肢など存在するのか?
そして、第三。
これが最悪の事実だった。
――俺は、気象学の知識など、爪の先ほども持ち合わせていない。
(神様、一体俺をどんな状況に追い込んでくれたんだ――)




