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漂流する微睡み  作者: 廉価広也


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2/5

第2話:広場恐怖症の疑いにより、職務を忘却した気象観測員 (1)

アーク1: 憂鬱な七夕

ザー、と砂嵐の鳴り響いていたテレビから、突如として耳に馴染んだ、爆発的な電子シンセサイザーのコードが轟いた。

 『時空戦士スピルバン』のオープニングテーマだ。

 オットーは、激しい眩暈めまいに襲われた。

 気がつけば――

 その身体には、窮屈なビジネスシャツがまとわりついている。

 仕立ての良いスーツ。

 きっちりと締められたネクタイ。

 完全なる組織人の服装だった。

 ガラガラ、と小気味よい音を立てて障子が開く。

 現れたのは、ショートヘアの快活で可愛らしい若い女性だった。

 小さな男の子の、その手を引いている。

 しかし弟の方は、姉の手を振りほどくようにして、テレビの目の前へと突進していった。

 そのまま、真新しい畳の上へと陣取る。

「あー……もう。サキ姉ちゃんに恥をかかせないでよ」

 だが、清潔で温かみのある畳の上にとりついた幼児は、画面の中で躍動する金属質のクロームスーツに、すでに完全に目を奪われていた。

 姉はただ、申し訳なさそうにオットーへ向けて苦笑いを浮かべる。

 オットー自身は、まだ何が起きているのか分からず混乱していた。

 さっきまで、そこにあったはずの、あの古びた昭和の廃屋。

 それがどうして、突然こんな生活感の漂う、温かな家族のリビングに変貌しているのか。

(一体全体、何が起きているんだ……!?)

(今、自分のことをサキって言ったか? ここはどこだ?)

 しかし、サキはオットーのその困惑した表情を、「不快感の表明」だと誤解したらしい。

 彼女は慌てて頭を下げた。

「あ! 本当にごめんなさい、オットーさん。ヒロちゃん、別に悪気はないんです。ただ……その、ずっと楽しみにしていた大好きな番組が、やっとまた観られるようになって、嬉しくて舞い上がっちゃって」

「本当に、いくら感謝しても足りません。うちの古いテレビを直してくださって、ありがとうございました」

 状況は掴めない。

 だが、オットーは平静を装うことにした。

 小さく手を振り、大人の余裕を見せる。

「ああ、気にしないで、サキさん。それじゃあ、俺はこれで」

「えっ……? オットーさん、夕飯、食べていかれないんですか?」

 オットーのあまりに唐突な身振りに、サキは怪訝けげんそうな声をあげた。

「いや、申し訳ない。急に別の場所で、片付けなきゃいけない用事を思い出したんだ。これで失礼するよ」

 気まずい空気が流れる前に、オットーは社会人としての顔を崩さず、その場を巧みに取り繕った。

「あ、そういうことでしたら……。ちょっと待ってください、すぐにお弁当を包みますから!」

 サキはテレビのボリュームを少し下げると――小さなヒロシの爆音が他人の迷惑にならないようにという配慮だろう――素早く立ち上がり、台所へと駆け去っていった。

 引き留める間もなかった。

 オットーは、ガラス戸の手前にある板張りの縁側に、ぽつんと座り込んだ。

 本能的な感覚に促されるようにして、靴を履き始める。

 サキを待つ間、視線は外へと向けられていた。

 夜気は、ねっとりと生温く、湿っている。

 目の前に広がっていたのは、見渡す限りの闇に揺れる、広大な田園風景だった。

 どこか地方の田舎道。

 そして、その頭上。

 そこには、現代の東京の光害に一切汚されていない、広大な夜空が広がっていた。

 色とりどりの星々が鮮やかに発光している。

 天の川が、恐ろしいほど鮮明な光の帯となって夜空を横切っていた。

 圧倒的な、美しい星空。

 しかしその瞬間、オットーの脳裏を過った唯一の明確な思考は、決して感傷的なものではなかった。

(クソが……。ここはどこだ。俺はどこにいるんだ……!)

 二度と元の世界に帰れないかもしれない。

 その予感が胸の奥からパニックとなって競り上がってくる。

 心臓が、野生のように激しく脈打ち始める。

 気が狂いそうになったその瞬間、奥の部屋からサキの微かな声が響き、辛うじて彼は現実へと繋ぎ止められた。

「お待たせしました、オットーさん。これ、お重です。観測所でもしっかり食べられるように、たくさん詰めておきましたから。遠慮しないでくださいね」

 オットーは冷静さを取り戻し、彼女から包みを受け取った。

 その際、彼女の口から出た言葉を脳内のメモリに刻みつける。

 ――『観測所』。

「ありがとう。……いや、こんなに良くしてもらう筋合いはないんだが」

「ときに、サキさん。ここからその『観測所』へ行くルートなんだが……他に別の道はなかったかな?」

「え? もっと近道がないか、ってことですか?」

 オットーは静かに頷いた。冷静なポーカーフェイスのままで。

「ああ、その通りだ」

「うーん、そうですね。カズオのじっちゃんちの畑の裏手にある川を渡れば、確かに一番早いですけど……。でも、本当にあっちから行くんですか? 水深は浅いから橋がなくても渡れますけど、水飛沫みずしぶきで服が濡れちゃいますよ。それに、この時間はもう真っ暗ですし……」

「ああ、構わない」

 オットーは、安心させるように言った。

「……って、そんな高級そうなスーツを水浸しにするわけにはいかないですよ! えっ? 本当に構わないって……ダメですよ、そんなの! 本気でそんな格好で川を渡るつもりですか?」

 サキが心底心配そうに、声を尖らせる。

「本当に、大丈夫だから……」

「ダメですって。川底の苔で足を滑らせたらどうするんですか。……ちょっとここで待っていてください。私が付いていきますから。どのみち、その格好じゃあ一人でお重を持って川を渡るなんて無理です。少しだけ待ってくださいね、親にちょっと外へ出てくるって言ってきますから」

 またしても、オットーが制止の声をかけるより早く、サキは奥へと消えてしまった。

 残されたのは、柄物の風呂敷に包まれた重箱。

 確かに、これを抱えたまま、ルートも分からない「観測所」とやらへ一人でたどり着くのは不可能だった。

 オットーは思った。

(神様。もしあんたが本当にいるなら――)

(一体全体、俺をどんな状況に放り込みやがったんだ)


お読みいただきありがとうございます。原文(英語)は著者のページをご覧ください。

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