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自動ドアの向こう側では、緑色の肌をした連中が、顔を真っ赤にして喚き散らしている。
ナタでガラスを叩いても、肩をぶつけても、透明な障壁はびくともしない。叩くたびに「キンッ」と高い音が響き、衝撃がそのままゴブリンの腕に跳ね返っているようだった。
「……これ、すごくリアルな夢だなぁ」
僕は床に座り込んだまま、ぽつりと呟いた。きっと、追い詰められた恐怖で脳がハッピーな幻覚を見せているに違いない。そうじゃないと、こんな廃墟のど真ん中に、ピカピカの自動ドアなんてあるはずがないから。
僕は立ち上がり、おそるおそるモールの奥へと歩き出した。床は白く、鏡のように磨き上げられている。一歩踏み出すたびに、僕のボロボロの靴底が「キュッ、キュッ」と鳴るのが、妙に生々しく耳に届いた。
「……広いなぁ。夢にしては、空調が効きすぎてるくらいだ」
見上げれば、三階まで続く大きな吹き抜けがあった。天井からは、春の午後のような柔らかい光が降り注いでいる。
空調の音は「コー……」という静かな唸りを上げ、僕の頬を撫でる空気には、半年間吸い続けてきた埃っぽさがカケラもなかった。
ふと、視界の右端に、ぼんやりと光る文字が浮かんできた。
『エリア:はじまりのモール(ランク1)』
『開放店舗数:1』
『現在滞在人数:1名』
『エオンマネー残高:0』
「うわっ、なにこれ。ゴミが目に入った……?」
目をこすってみるけれど、文字は消えない。首を振っても、視界の端にぴったりとくっついてくる。どうやら、僕の目か脳がおかしくなってしまったらしい。
僕は半ば現実逃避のような気持ちで、広大なフロアを歩き続けた。すると、一箇所だけシャッターが開いている一画を見つけた。店舗の名前は――『UNIKLOO』。
「……服屋さんだ。夢の中でも、お買い物できるのかな」
店内に入ると、そこには新品の綿の匂いが満ちていた。そして驚いたことに、そこには人がいた。
「いらっしゃいませ。エオンモールへようこそ」
整えられた髪に、清潔なスタッフ用のポロシャツ。どこからどう見ても、文明が崩壊する前にどこにでもいた店員さんだ。外の世界では、出会う人間といえば殺気立っているか絶望しているかのどちらかだった。こんなに穏やかな微笑みを見るのは、もう半年ぶりになる。
「……あの、これ、夢ですか?」
「お客様がそう思われるのであれば、そうかもしれませんね。ですが、お買い物は現実にしていただけますよ」
店員さんは、さらりとそう答えた。なんだか不思議な人だ。人間らしいけれど、どこかこの空間の一部のような、浮世離れした雰囲気がある。
僕は自分の袖を見た。半年間一度も洗わず、泥と汗で樹皮のように固まったシャツ。ひどい臭いがしているのは、自分でもよくわかっていた。
「これ……新しいのに変えたいんですけど」
「左様でございますか。こちらのシャツなどは、本日の価格で10エオンマネーとなっております」
視界の端の文字を見る。残高は、やはり0だった。
僕はトボトボと、入口の自動ドアまで戻ってきた。ドアの脇には、不思議な石造りのボックスが置かれている。
『魔石を投入してください。時価にてエオンマネーに換金します』
僕はリュックの底をまさぐり、以前拾った「ゴブリンの欠片」を取り出した。親指ほどの大きさの、濁った緑色の石。それを、投入口へおそるおそる落とした。
ピッ。
軽快な電子音が響き、視界の端の数字が『15』に書き換わった。
「……あ。増えた」
僕は再び『UNIKLOO』へと走り、一番手近なシャツをレジへ持っていった。店員さんが慣れた手つきで商品をスキャンする。
「お会計は10エオンマネーです」
視界の中に『決済しますか?』という文字と、小さな『はい』というボタンが浮かび上がる。
空中に浮いているそのボタンを、指先で軽く叩いてみた。
ピッ、という小気味いい電子音。視界の残高が『5』になった。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
丁寧なお辞儀に見送られ、僕は震える手で、袋に入った新品のシャツを受け取った。
広場の中央にある、ふかふかのベンチに腰を下ろす。
半年間着古し、もはや皮膚の一部になりかけていたボロシャツを脱ぎ捨て、新しいシャツに袖を通した。
ひんやりとして、でも柔らかい布地。
「……ああ。本物だ」
この肌触りは、絶対に嘘じゃない。夢じゃないんだ。僕は、本当に助かったんだ。
……ぐぅぅ。
「……あ。そうだった。服は手に入ったけど、食べ物はどこにもないんだった」
店員さんは親切だったけれど、服屋さんの店員さんがおにぎりをくれるわけじゃない。辺りを見渡しても、シャッターの降りた店舗ばかり。リュックの中にあるのは、あと一箱のカロリーメイトだけだ。
「……安全だし、服は綺麗になったけど。ひもじいのは変わらないなぁ」
僕は苦笑いしながら、広大なフロアを眺めた。でも、あの絶望的な廃墟で震えているよりは、ずっといい。
「とりあえず、今日はここで寝よう。店員さんに怒られないかな……」
半年ぶりに嗅ぐ「自分じゃない匂い」に包まれながら、僕はゆっくりと目を閉じた。




