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世界が終わってから、一番困ったこと。
それは、コンビニの「からあげ棒」がどこにも売っていないことだった。
灰色の雲が低く垂れ込める空を見上げながら、僕は瓦礫の陰でそんなことを考えていた。
かつては青かったはずの空は、今や濁ったコンクリートの色をしている。アスファルトの隙間からは、見たこともないどす黒い蔓植物が血管のようにのたうち回り、崩れたビルの壁を我が物顔で覆い尽くしていた。
「……あ、あそこにもゴブリン。今日は集会でもあるのかな」
僕は、ひび割れた電柱の後ろからこっそりと通りを覗き見る。
百メートルほど先、かつての交差点だった場所には、緑色の肌をした小柄な怪物——ゴブリンが三匹、何かの骨を囲んでキャッキャと下卑た声を上げていた。
腰にはボロ布を巻き、手には錆びたナタのようなものを持っている。ファンタジー映画の撮影なら微笑ましい光景だけど、あいつらが齧っているのが「かつて人間だったもの」の骨だという一点において、この状況は全くもって笑えない。
半年ほど前、世界は突然変異した。
「大転換」なんて呼ぶ人もいたけれど、僕にとっては単に「学校に行かなくて良くなった日」だった。もっとも、その代わりに毎日が命がけの隠れん坊になってしまったけれど。
僕は背負っていたボロボロのリュックの紐を締め直す。
中には、さっき廃墟と化したドラッグストアで見つけた、期限切れ間近のカロリーメイトが二箱と、半分ほど水の入ったペットボトル。これが僕の全財産だ。
「お腹、空いたなぁ……。焼きたてのパンとか、食べたいなぁ」
お腹がぐぅ、と鳴った。
この状況で呑気なものだと自分でも思う。でも、絶望に浸るには僕は少しばかり想像力が足りないのかもしれない。隣の家のおじさんがゴブリンに追いかけ回されていた時も、僕は「あの人、あんなに足速かったんだ」なんて感心してしまったくらいだ。
ゴブリンたちが骨に飽きたのか、ゆっくりとこちらの方へ歩き出した。
僕は息を止め、壁に背中を預ける。
心臓の音がうるさい。ドクドクと、耳のすぐそばで太鼓を叩かれているみたいだ。
一歩、また一歩。
硬い爪がアスファルトを叩くカツン、カツンという音が近づいてくる。
もし見つかったら、僕の細い首なんてあの錆びたナタで一突きだろう。
そうなったら、誰が僕の代わりにあのカロリーメイトを食べるんだろうか。できれば、ちゃんと味のわかる人に食べてほしい。チーズ味は好き嫌いが分かれるから。
「ギギッ? ギギギ?」
ゴブリンの声がすぐそこまで来ている。
僕は目を閉じた。
こんな時、どこかへ逃げ込めるドアがあればいいのに。
誰にも邪魔されず、冷房が効いていて、明るくて、いい匂いがする場所。
例えば、お母さんと週末に行っていた、あの大きなショッピングモールみたいな場所へ。
その時だった。
頭の奥で、カチリ、と何かが噛み合うような音がした。
『個体名:アキラ。……「安住への渇望」を確認。……固有スキル「ショッピングモール」を開放します』
「え……? 今、誰か喋った?」
思わず声が出てしまった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
壁の向こう側で、ゴブリンたちの動きが止まった。
「ギィッ!?」
醜悪な顔が壁の端から覗く。
黄色い濁った瞳が、僕を捉えた。
ゴブリンは口の端から汚らしい唾液を垂らし、狂喜に満ちた声を上げてナタを振り上げた。
「あ、これ、ダメなやつだ」
僕は反射的に手を前に突き出す。
戦う術なんて持っていない。武器なんて、さっき拾ったカロリーメイトの箱くらいだ。
せめて、どこかへ逃げたい。どこでもいい。
あの、明るくて平和な、自動ドアの向こう側へ——。
その瞬間、僕の目の前の空間が、まるで水面に石を投げ込んだ時のように歪んだ。
「……え?」
空中に、一本の光の線が走る。
それは左右にスッと分かれ、見慣れた、けれどこの廃墟の街には絶対に存在し得ない「モノ」へと姿を変えた。
それは、ガラス製の、清潔な自動ドアだった。
透明なガラスの向こうには、燦々と降り注ぐ暖かな照明の光が見える。
ピカピカに磨かれた床と、遠くから聞こえてくる穏やかなインストゥルメンタルのBGM。
「自動ドア……? なんでこんなところに」
「ギギィッ!!」
背後からゴブリンが飛びかかってくる。
僕は考えるよりも先に、その不思議なドアへと飛び込んだ。
ウィィィィン……。
耳慣れた、機械的な駆動音。
僕の体が中に入ると同時に、自動ドアは冷酷なほどスムーズに閉まった。
直後、ガツォンッ! と、ガラスの向こう側でゴブリンが顔面をドアにぶつけ、鼻を潰してひっくり返るのが見えた。
奴らは必死にガラスを叩き、ナタを振り下ろすが、ドアには傷一つ付かない。それどころか、まるでそこには壁があるかのように、彼らの侵入を一切拒んでいた。
僕は床にへたり込み、荒い息を吐きながら辺りを見回した。
静かだ。
外の血生臭い風の音も、怪物の叫び声も、ここには届かない。
ただ、天井のスピーカーから、バイオリンが奏でるポップソングが優しく流れているだけ。
顔を上げると、そこには広大な吹き抜けの空間が広がっていた。
白い壁、整然と並ぶベンチ、そして——。
「……エオン、だ」
いや、看板には微妙に違う名前が書いてあるけれど。
でも、この空気、この匂い、この安心感。
それは間違いなく、僕が知っている「ショッピングモール」そのものだった。




