第一章終話 それでも日常は続いていく
その夜、雨が降った。屋根に雨が当たる音を聞きながら、リアは昼間の会話を思い出す。あの後、何も聞けなかった。
名前を奪われ、番号で呼ばれる。それは存在を消されるようなものではないだろうか。
リアは規則正しい寝息を立てている少年に目を向ける。今は悪夢を見ていないようだ。彼は深い心の傷を抱えている。薬で体の傷を癒すことは出来ても、心の傷は癒せない。
リアは自分の無力さに唇を噛み締めた。
空が一瞬光り、雨音に混じって雷鳴の音が聞こえる。その音はまだ遠かったが、確実に近付いているようだった。
翌朝、雨は既に上がっていた。外はあちらこちらに水溜まりが出来ており、水の精霊――ウンディアが楽しそうに遊んでいる。リアは窓を開けて深く息を吸う。冷たい空気が肺を満たし、少し胸が痛んだ。
「今日は一日中晴れそうだね」
返事はない。代わりに背後で布の擦れる音がした。
振り向くと少年が上半身を起こして、こちらを見ている。顔色はすっかり良くなっていた。
「気分はどう?」
「大分良くなった、と思う」
「そう。ご飯は食べられそう?」
「……少し」
遠慮がちに口を開く少年にリアは頷くと、朝食の準備を始める。竈に火を入れると、鍋に水を入れ、そこに米と刻んだ根菜を入れる。火にかけながら乾燥させていた薬草から何種類か選び、それも鍋に入れた。
昨日はスープしか食べていなかったし、胃に優しい物の方が良いと思い、パンはやめておく。
ミラはリアの側で手伝いながらも、視線は少年に向ける。少年はベッドの縁に座ったまま動かない。背筋を伸ばし、呼ばれればすぐに動けるような体勢を取っているように見えた。
実際その通りで、朝食が出来たと声をかけると、すぐに立ち上がり、リアの横に立った。ミラが警戒するように間に入る。
「えっと、食卓に座ってくれる?」
「あ……うん」
他の精霊たちは少年を案内するかのように、椅子の横で淡い光を放つ。少年は促されるままにそこに座った。
「足りなかったら言ってね」
「……ありがとう」
今日も少年は音を立てないように、細心の注意を払って食べているようだった。歩く時も殆ど足音が聞こえなかった。まるで存在を消すように。誰かにそう、躾られたかのような。
「音、気にしなくていいよ」
「え……?」
「食べにくいでしょ?」
「あ……癖なんだ。その……母さんが、嫌がるから……。でも、気になるなら、直すから」
少年は戸惑いながらもそう答える。リアはその言葉を聞いて胸がぎゅっと締め付けられる感じがした。
この少年は、自分がしたいからしているわけではない。全て相手の望み通りに動くことが行動基準になっている。相手の顔色を窺いながら言葉を選ぶ様子も、“母親が嫌がるから”なのだろう。
「ねぇ、名前なんだけどさ」
少年の指先がピクリと反応する。
「ここでは数字で呼ばれる必要ないよ」
「え……」
「名前も、言いたくなかったら言わなくていいから」
ミラはそんなリアの言葉を黙って聞いている。精霊にとって名前とは、とても意味のあるものだ。名を呼ばれることで繋がることができる。
ならば、名前を奪われた彼は? 彼はどこに存在しているのだろうか。
ミラは少年を見つめる。まだ名前を呼ばれることのない少年は、それでもその日、番号を名乗るのをやめた。
水の精霊はウンディアです。
これで第一章は終わりになります。
第二章からは三人の日常です。




