第三十五話 森へ至る影
町を出てから、リアは何度も後ろを振り返る。誰も追っては来ない。お守りを持っているユノの姿は、町の人には認識出来ていなかっただろう。
それでも、不安ばかりが心の奥底から湧き上がってきた。
教会が探している少年。違うと思いたかったが、頭の中ではずっと町で聞いた噂がぐるぐると回っていた。
森へ入ると、ようやく少し安心出来た。相変わらず精霊の姿は少ないが、無事に森まで辿り着けた安堵感があった。
風が木々を揺らす音を聞きながら、小屋への道を歩く。すれ違う精霊たちが、すぐに距離を取るように離れていった。
「やっぱり、変だよね……」
その様子に気付いたのか、ユノは不安そうに辺りを見回す。精霊たちは一定の距離を保ってはいたが、それでも心配そうにこちらの様子をうかがっていた。
森の精霊たちは、町での出来事を知らない。だが、リアには自分たちの不安を感じ取っているように見えた。
精霊たちは変わらない。だからこそ、この森はまだ安全だ。
「大丈夫。きっとすぐ元に戻るよ」
それは、自分に言い聞かせるような言葉。そう信じたいだけかもしれない。
ミラは何も言わず、ただ静かに精霊たちを見つめる。その横顔に険しさを感じて、そっと目を逸らした。
小屋に戻っても、胸のざわめきはおさまらなかった。リアは心を落ち着かせるために、お茶の準備を始める。
誰も何も喋らない。しばらくはお湯を沸かす音や、茶器を準備する音だけが聞こえていた。
そんな沈黙を破ったのはユノだった。
「……教会が探してるのって、僕のことだよね」
そう言ってユノは自分の髪に触れる。光の加減によっては白にも見える金髪。
そして、町を出る前に聞こえてきた噂にはもう一つの特徴があった。緑色の目。
ユノの目は、翡翠のように綺麗な緑色をしていた。
リアは何も言えず、代わりに手を強く握りしめる。教会の目的は分からない。でも、ユノがどんな思いであそこから逃げてきたかは知っている。絶対に見つかるわけにはいかない。
「ごめん」
「……どうして謝るの」
不意にユノの口から零れた謝罪に、リアは唇を噛む。彼の言いたいことが分かってしまったから。
ユノは俯きながら続けた。
「僕がここに来たから、森を巻き込んじゃったんだ」
小さく握られた手が震えている。教会に探される恐怖、そして森を巻き込んでしまった申し訳なさ、様々な感情が顔に浮かんでいる。
リアやミラに迷惑をかけるくらいならいっそ――
「ダメだよ」
ユノが決意のこもった目で二人を見詰めると、その考えを見透かされたようにリアが口を開いた。
そのままユノの手を取ると、握りしめていた指を優しく開く。爪がくい込んでいた手には、薄ら血が滲んでいた。
「絶対にダメ」
「……まだ何も言ってないよ」
「分かるよ」
射るような眼差しを向けられ、ユノは思わずたじろいで、目を逸らす。本当に心を見透かされているような気がした。
「ユノは優しいから、私たちを……森を巻き込まないようにここを出ていくつもりなんでしょ」
図星だった。何も言えずに黙り込む。
「ユノを連れてきたのは私なんだよ」
「でも」
「ユノに関わる選択をしたのは私。だから……森を巻き込んだことは私にも責任がある」
ユノを助けたことに後悔はない。あのまま放っておくことなど出来るはずがなかった。それでも、森に危険を持ち込んで、ユノに責任を感じさせてしまったことに心が痛んだ。
お互い責任を感じている様子に、今まで黙っていたミラが静かに口を開く。
「そもそも、ユノをここに導いたのは精霊たちです」
二人の視線がミラへ向く。
「そこにあなた方が責任を感じることはありません」
そう言い切ったミラの声に、慰めの色はなかった。ただ事実を述べただけ。
「既に異変は始まっています。たとえユノが来なかったとしても、遅かれ早かれ何かが起きていたでしょう」
ミラが窓の外に視線を移すと、二人も釣られて外を見た。各地の異変が、この森にも影響を及ぼし始めている。それは、ユノの訪れとは関係なく。
「それよりも、教会が動き始めた以上、今まで通りというわけにはいきません」
その言葉に、小屋の空気が重く沈む。今後は、町へ行くのも危険かもしれない。町へ行く時はユノを森に残すという手もあるが、リアのことも知られている可能性がある。
「でも、森から一歩も出ないわけにはいかないよね」
生活のことを考えれば、いつまでも隠れ続けることは出来ない。リアが考え込んでいると、ユノがぽつりと呟いた。
「もう二度と、あそこには戻りたくない」
その声に、リアは顔を上げる。それは、ユノから出た初めての本音。森を出ようとしていた覚悟は、もうそこにはなかった。
「また聖具を作らされるのは……精霊を犠牲にするのは……嫌だ」
ユノは自分の手を見つめる。自分が壊れないよう、心を殺して教会に従った。精霊の声を聞き流し、壊れなければ捨てられないと、それがあそこで生き残る術だと。
でも、そんなの生きているとは言わない。森で過ごして、ユノは初めて自分の意思で選択することを知った。
母の言いなりでも、教会の指示でもない。自分の選択には責任が伴うが、それが生きていくということだと。
「……うん。これからどうするのか、みんなで考えよう」
教会のことは話を聞いただけで、よく知っているわけではない。でも、ユノにとって、あそこは帰りたい場所じゃない。それが分かっただけで十分だった。
三人で再び頭を悩ませ始めた時だった。ふと、扉の向こうに気配が現れる。
リアの背筋が凍った。今まで、全く気が付かなかった。森へ知らない人間が立ち入れば、精霊たちが騒ぐはずだ。
これも異変の影響かと思ったが、ミラが気付かないはずもない。それなのに、その気配は突然、小屋のすぐ近くに現れた。
ミラの表情が険しくなる。
「何故……」
そう呟いた直後。
コンコン、と扉をノックする音が、静かな小屋に響いた。三人の空気が、一瞬で張り詰める。
「……どちら様ですか」
リアが硬い声で問いかける。ユノの息を呑む声が聞こえた。ミラも警戒しながら扉を見つめる。
すると、扉の向こうから、落ち着いた男の声が返ってきた。
「王の使いで参りました」
その言葉に、リアとユノが顔を見合わせる。王の使いが何故、この森に。二人の顔に、困惑が浮かぶ。
しかし、ミラだけは妙に冷静だった。
「……証明は」
ミラが静かに問う。少しの沈黙のあと、男は再び口を開いた。
「こちらをお見せすれば、お分かりいただけるかと」
そう言って覗き窓の向こうに差し出されたのは、小さなお守りだった。
銀糸で編んだ袋が、深い闇色の石を包んでいる。それを見た瞬間、リアは目を見開いた。
「なんで……」
闇の精霊の力を宿したお守りだった。それも、母が作っていたものによく似ている。
なぜ王家がそんなものを持っているのか。困惑するリアの隣りで、ミラはわずかに目を細めた。
「……なるほど、これで気配を隠していたのですね」
「ええ、森の入口に先客がいましたから」
三人の間に緊張が走る。他にも、この森に入ろうとしている人間がいるのか。
男はそんな空気を知ってか知らずか、扉越しに会話を続ける。
「王より、あなた方を逃がすよう仰せつかっております」
リアは思わず息を止めた。
「……逃がす?」
「教会は既にこの森へ辿り着いています。恐らく、遠からず動くでしょう」
その言葉に、不安が胸の中を渦巻く。やはり、森はもう安全ではない。
「ですので、王宮まで同行していただきたいのです」
静かな声だった。命令ではなく、あくまで願うような口調。
リアはユノを見る。ユノもまた、不安そうな表情でこちらを見返していた。
外の世界が、ついにこの森へ手を伸ばし始めている。




