第三十三話 遠ざかる気配
それから数日、違和感を抱えたまま、何事もなかったかのような日々が続いていた。
目に見えて何かが変わったわけではない。森も、小屋も、そこにあるものはこれまでと変わらないままだ。けれど、どこか落ち着かない感覚だけが、薄く残り続けていた。
理由は分からない。ただ、静かすぎる。
小屋の外に出て、リアは足を止めた。耳を澄ませば、風が葉を揺らす音は確かにある。遠くで鳥の鳴き声も聞こえる。それでも、何かが足りない気がした。
ふと、視界の端で淡い光が揺れる。その瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。触れれば消えてしまいそうな小さな光。その光が一瞬、強く瞬いた気がしたからだ。もう一度見れば、それはいつもと変わらぬ光をまとっている。
「気のせい……?」
リアは確認するように周囲を見渡す。しかし、無数に漂っているはずの精霊たちが、いつもより少ないことに気が付いた。さらに、こちらを避けているようにも見える。こんなことは初めてだった。
「何か、おかしい……よね……」
小さく呟くと、背後から静かな声が返る。
「そうですね」
独り言のつもりだったため、驚いて振り返ると、ミラがこちらを見ていた。その表情はいつもと変わらないが、わずかに視線が鋭い。
「……気のせいかもって、思ってた」
リアはその視線から逃れるように目を逸らす。認めてしまえば、本当にこの日常が壊れてしまうと思った。
しかし、そんな思いを知ってか知らずか、ミラははっきりとした口調で答える。
「いいえ、こんなことは初めてです」
リアはわずかに息を詰めた。十七年前にも同じようなことがあったのではなかったのか。顔に出ていたのか、ミラは思い出すように口を開く。
「少なくとも、十七年前は姿を見せなくなるということはありませんでした。近づいてこないだけでなく、意図的に距離を取っているようにも感じます」
「避けてる……ってこと?」
「断定はできませんが、そのようにも見えます」
ミラは一度視線を森の奥へ向ける。
「森の外だけの問題ではなさそうですね」
その言葉に、胸の奥がわずかに重くなる。どこか、他人事だと思っていた。でも、その異変は今や森にも迫ってきている。
町で見た、ひび割れた魔道具の光が脳裏をよぎった。精霊の力が暴れたような、あの異様な気配。似たようなことが、森でも起きるのだろうか。
「精霊は、何を避けているんだろう」
リアが尋ねると、ミラはわずかに目を伏せる。避けていることを断定しなかった割には、何か知っていそうな反応に、違和感を覚えた。
「ミラ、何か知っているなら教えて。何も知らないまま、森を失うことになったらいやだよ」
そう訴えれば、ミラは観念したように口を開いた。
「……恐らく、ユノの力を警戒しているのでしょう」
「ユノの……?」
「ええ」
そこでミラは一度口を閉ざす。どのように伝えるか、迷っているようだった。
「彼は精霊と共鳴しすぎる。今の不安定な精霊たちでは、触れることで力を引き出されすぎてしまう可能性もある。なので、それを避けているのでしょう」
「そんな……でも、それは……」
「ええ、彼のせいではありません」
そう言ってミラは困ったように笑った。精霊との親和性が高いことは悪いことではない。それでも、今の状況では危険な力だ。
精霊たちも分かっている。ユノが嫌いなわけではない。だからこそ、危険な目に合わせないよう距離を取った。それが、今出来る最善だと思っている。
リアが次の言葉を紡げないでいると、小屋の中からぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「二人とも、どうしたの?」
顔を出したユノが、不思議そうに首を傾げた。
「あ、ううん。ちょっと外の様子を見てただけ」
リアはすぐに笑ってみせる。ユノは「そうなんだ」と頷きながら、外を見渡した。その顔はどこか不安げだ。
「……やっぱり、なんとなく落ち着かない感じはあるけど、他はいつも通りだよね?」
「うん……そうだね」
短く答えながら、リアは目を伏せる。どうやら、精霊の少なさにはまだ気が付いていないようだ。それなら、わざわざ不安を煽るようなことを言うべきではない。
ミラの方を見れば、彼女も自分と同じ考えのようで、小さく頷いて口を閉ざした。
「今日はどうするの?」
二人の空気に気付いた様子もなく、ユノはリアに尋ねた。このまま森で様子を見るべきか。そう考えて町の方に目を向けると、胸の奥がわずかにざわついた。
「……町に行こう」
「町?」
「うん。この魔道具も気になるし……」
嘘ではない。あれから他の魔道具にも異変が起きていないか、それから森の外の精霊の様子はどうなのか、確認にしておきたい。
ミラもその言葉に静かに同意する。
「外の様子を知るのも、悪くありませんね。もし何か変化が起きているのであれば、森の中だけに留まるのは得策ではありません」
「じゃあ決まりだね」
ユノはそう言うと、支度をするために再び小屋の中へと戻っていく。その様子に、リアは小さく息を吐いた。
――考えすぎ、かもしれない。
そう思いたい。けれど、拭いきれない違和感だけが、胸の奥に残り続けていた。
リアは支度を整えると、小屋の扉に手をかける。その時、リアの動きがほんの一瞬だけ止まった。
「リア? どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」
開ければ先程と同じ景色が広がっているはずなのに。不安な気持ちを押し殺し、リアは扉を押す。
外は、変わらず静かだった。わずかに夏の空気が混じった風に、鳥の声、川のせせらぎ。それでも、どこか遠くに感じる。まるで、この森そのものが何かを遠ざけているかのように。
――あるいは、何かから遠ざかろうとしているかのように。
第六章が始まりました。
この章から物語が大きく動いていく予定ですので、どうぞお付き合いください。




