第三十一話 わずかな綻び
窓から差し込むやわらかな光で目を覚ましたリアは、ゆっくりと身を起こした。ぐっと伸びをしながら窓の外を見れば、いつもと変わらない春の森が広がっている。
――変わらない、はずなのに。
リアは違和感を覚えて、わずかに眉を寄せる。何かは分からないが、ただ少しだけ心がざわめく。
しばらく窓の外を眺めていたリアだったが、やがて小さく息を吐くとベッドから立ち上がった。
今日は夢見が悪かったせいかもしれない。内容はあまり覚えていないが、それでも心には嫌な感じだけが残っていた。
リアはミラに挨拶をして身支度を整えると、食卓へと向かう。扉を開けると、すでに起きていたユノが窓のそばで外を眺めていた。
「おはよう、ユノ」
「リア、ミラ。おはよう」
声をかければ、こちらを見て挨拶を返す。いつもと変わらない様子のユノを見て、リアは小さく安堵した。
ふとユノの手を見ると、無意識なのか、ポケットに触れている。あそこには恐らく昨日渡したお守りが入っているのだろう。
「持ち歩いてるんだね」
「……うん。なんとなく、落ち着くんだ」
言いながら、ユノはポケットを軽く押さえる。すると、硬い感触が指先に返ってきた。その存在が、安心感を与える。
リアはその様子を見て微笑むと、朝食の支度に取り掛かることにした。しかし、ふとした瞬間につい意識が外に向いてしまう。ユノもまた、何度か窓の外へ目を向けていた。
リアは何度目か分からないその行為から意識を戻すと、かまどの前にしゃがみこみ、手馴れた様子で薪を整えた。火をつけようとすると、火の精霊がリアの手元に寄ってくる。
「手伝ってくれるの?」
聞くと、精霊は肯定を示すように軽く上下に動く。
「それじゃあお願いね」
いつもなら、このまま穏やかに火が灯るはずだった。その後は少し薪を整えてやればいい。
次の瞬間――
ぼっ、と。
かまどの中で、火が勢いよく燃え上がった。
「……っ!」
驚いて身を引いたリアだったが、燃え上がったのは一瞬だけで、すでに炎は落ち着きを取り戻していた。ぱち、と薪の爆ぜる音がやけに大きく聞こえる。精霊も意図していなかったことのようで、困惑したようにリアの周りを漂っていた。
「大丈夫!?」
驚いて尻餅をついていたリアに気が付いたユノが慌てて駆け寄ってくる。リアは何でもないというように立ち上がった。
「ちょっと火が強くて驚いちゃっただけ。なんともないよ」
「火が?」
ユノも訝しげにかまどの中を確認するが、やはりいつもと同じ穏やかな火が揺れているだけだった。
「もしかしたら私の薪の置き方が悪かっただけかもしれないし、今はもう落ち着いたみたいだから」
「それなら良いけど……」
ユノは軽く怪我がないかだけ確認すると、朝食の用意に戻る。今日のユノの担当はサラダだ。瑞々しい葉が皿の上に盛られていく。
側にはミラがいて、ふと目が合う。その瞳は、どこか普段とは違う色を帯びており、リアは無意識にゴクリと唾を飲み込んだ。
「……ミラ?」
「何でもありません」
ふいっと顔を逸らしたミラは、考え事をしながら窓の外を見ている。リアは様子がおかしいミラが気になりながらも、もう一度かまどの中を覗き込む。念の為、火の勢いを抑えるように、薪の位置を少しだけ調整した。
食事を終えたあと、二人は小屋の外へ出る。空気は柔らかく、春の匂いがした。いつもの森の風景。しかし、やはり何か落ち着かない。違和感の正体が分からず、もやもやしたものが胸を渦巻く。
「どうかした?」
「うん……ちょっと……空気が……」
ユノに聞かれ、言い淀む。そんなユノも相変わらずポケットを触っていた。もしかしたら、彼も不安を感じているのかもしれない。
リアは言いかけていた言葉を飲み込み、安心させるように笑った。
「ううん、やっぱり気のせいかも」
胸の奥の引っ掛かりは消えない。それでも、ユノは少しホッとしたようにポケットから手を離した。
その時――。
「気のせいではありません」
静かな声が、背後から届く。振り返ると、ミラがいつの間にか二人のすぐ近くまで来ていた。
「ミラ……?」
リアが呼びかけるが、ミラは森を見つめたまま動かない。その瞳には、どこか別の場所が映っているようにも見えた。
「……似ています」
「似てるって、何が?」
「昔、見たことのある兆しに」
その言葉に、リアの心がわずかにざわつく。それはとても良くないことのようで、思わず息が詰まった。
「兆しって何の?」
口を閉ざしてしまったリアの代わりに、ユノが尋ねる。ミラはすぐには答えなかった。三人の間に、一瞬の沈黙がおりる。それから、ミラは静かに言葉を選ぶように続けた。
「精霊の気が、少しずつ乱れ始めています」
「でも……森は普通だよ?」
本当は気が付いていた。ずっとあった違和感。それでも認めたくなくて、リアは咄嗟に否定する。
「今はまだ小さな揺らぎです。でも、あなたたちなら感じるでしょう」
その言葉に二人は押し黙る。今までは違和感だったものが、言われてはっきりと分かってしまった。精霊の気の乱れ、それは朝の出来事にも繋がってくるのだろう。
「……前にもあったの?」
「……ええ」
短い肯定。しかし、ミラはそれ以上は語らない。町で聞いた噂を思い出す。十数年前にあった自然の乱れ。その時は誰かが鎮めて回っていたと聞いた。
リアは再び森を見る。光も、風も、音も、すべて変わらないように見える。それでも、もう気が付かないふりはできなくなってしまった。
「なんだか、分かる気がする。なんとなく落ち着かない感じ」
ユノがぽつりと呟く。その手は再びポケットに触れられていた。そこにあるお守りを確認すると、胸のざわつきがわずかに和らぐ。
ミラはその様子を静かに見守っていた。何も言わずに、ただ見守るように。
やがて、リアは小さく息を吐いた。
「……でも、今はまだ大丈夫なんだよね」
確認するような言葉。それにミラは一瞬だけ目を細める。
「ええ、今はまだ」
その言葉に、リアは小さく頷いた。森は穏やかで、まだ何も起きてはいない。だから、きっと大丈夫。
風がやわらかく吹き抜ける。木々の葉がさらさらと音を立てた。その間を精霊が飛び交い、更に音を立てる。
その音はいつもと同じはずなのに、どこか噛み合っていないように感じられた。
――ほんの、わずかにだけ。




