第十三話 母が笑った日
ユノは長く息を吐いた。もうほとんど湯気が立っていないコップのお茶を一口飲む。リアの顔は見れなかった。どんな顔をしているか、見るのが怖かった。
両手を膝の上に置いて握りしめる。俯くユノの視界にリアの手が映りこんだ。そのままふわりと両手を包まれる。手のひらの温度が伝わってきて、自分の手が随分冷えていたことに気付く。
顔を上げると、リアは何かを堪えるような顔をしていた。目に溜まったものを絶対に零すまいと。ここで泣いてしまったら、ユノはこれ以上背負わせまいと口を閉ざしてしまうと、リアには分かっていた。肩口のミラも小さく光を揺らしている。
しばらく沈黙が落ちる。誰も口を開かないでいると、火の精霊がコップの周りを舞った。すっかり温度を失っていたお茶から、再び湯気が上がり始める。
「ありがとう」
小さく呟いたユノは、もう一口お茶を飲んだ。まだ、話せていないことがある。
ユノの意識は再び過去へと沈んだ。
*****
宝石が減っていくにつれ、生活は目に見えて良くなっていった。切り分けられるパンの量は増え、スープにも具が入れられる。冬は寒さに震えることもなく、服の継ぎ接ぎも減った。母は宝石を父からの愛だと言っていたが、愛とはこういう物なのかと思った。
しかし、最初は機嫌が良かった母も、宝石が減る度に不機嫌になっていった。些細なことで声を荒らげることが多くなり、何もしていないのに怒られた。ユノは更に息を殺すように過ごし、母の言うことには従順に従った。
母は夜になると木箱を取り出し、中に入った宝石を数える。
「ああ、こんなに減って……。いえ、違うわ、あれはあの人の愛の形じゃなかったもの。ここにある物だけが、真実の愛なのよ」
木箱を抱き締める母は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
ある日の午後だった。ユノが洗濯物を干していると、淡い光がユノの周りを漂いだした。
――まただ。
最近家事をしているとなぜか自分の周りに集まってくる。ユノは努めて、その光を見えないふりをした。今思うと、あれは手伝ってくれようとしていたのかもしれない。森に来て、精霊たちの様子を見ていると、何となくそう思う。
でも、その時は理由が分からなかった。その頃のユノは母の機嫌を損ねないよう神経を尖らせていたため、思わず怒鳴ってしまった。
「どいてよ! どうして邪魔をするんだ!」
「ユノ? どうしたの?」
背後から聞こえた声に、はっと我に返る。振り返ると、そこには母がいた。ユノが何もない空間に向かって話をしていたことに気が付くと、みるみる顔が歪んでいった。
「あなた……またそんなこと……」
しまった、と思ってももう遅い。今日は物置か、それとも食事抜きか。ユノが身構えていると、母は突然体の力を抜き、何も言わずその場を去っていった。
怒られなかった。
いつもなら嬉しいはずなのに、なぜかその時は胸の中に不安が渦巻いていた。その日はそれ以上何も言われなかったが、家の中の空気は重く張りつめたままだった。
翌朝、ユノがいつも通り朝食を用意していると、母が起きてきた。昨日は何も言われなかったが、機嫌次第では後から怒られることもある。
「……母さん、おはよう」
「おはよう」
母はこちらを見ることもなくそう言うと、朝食に手を付ける。目が合わないなど、いつものことだ。母が挨拶を返してくれたことに安堵して、ユノも朝食を食べ始めた。
食べ終わった母は身支度を整えていた。今日は出掛けるらしい。
「留守番していなさい」
それだけ言い残すと、母は出かけて行った。どこへ出掛けるか、いつ頃帰るのか告げないのもいつものことだ。宝石を持ってはいなかったから、換金ではないだろう。音の無くなった部屋で、ユノはやはり昨日の不安は気のせいだったのだと、いつも通り家事を始めた。
日が傾く頃に、母が帰ってきた。その手には豪華な食材を抱えている。宝石は持って行かなかったはずなのに、と不思議に思いながらも、ユノは母を出迎えた。
その日は母が腕によりをかけて夕食を作ってくれた。珍しく鼻歌を歌うほど機嫌の良い母。夕食は柔らかいパンに、肉の入った煮込み、果実水まであった。
「沢山食べなさい」
母は笑いながら煮込みをよそってくれた。笑顔の母は久しぶりに見た。母が笑っている、それだけでユノは嬉しかった。何故こんなに機嫌が良いのか、ユノは聞かなかった。
翌日、珍しく早く起きた母は、ユノを起こすと身支度を整えるように言った。母に手を引かれ辿り着いたのは、祈りの声が響く教会だった。




