第九話 静かな暴走
昨夜の精霊のざわめきなど知らぬまま、少年は朝日に照らされて目が覚める。
森は静かだった。木々の間には精霊が飛び交い、柔らかな風が吹いている。
リアはまだ休んでいた。熱は下がっていたので、ベッドから出ようとしたところ、ミラがそれを許さなかったらしい。今日はゆっくり過ごす日にするようにと言い含めていた。
少年は一人で外に出る。今日は少し雲が出ていて、風も弱かった。乾燥棚にはまだ湿り気を帯びた薬草が置かれている。
リアは動けない。精霊に願えば、これも乾燥させてくれるだろうか。一人では呼ばないように言われていたため、あとでミラに聞いてみよう。
そう考えながら、昨日教えてもらった精霊の名前を思い出す。
「風の精霊、シルファ……」
声に出たのは無意識だった。願いではない。ただ名前を思い出して、口にしただけ。
その瞬間、空気が変わる。一陣の風が吹いた。強い風が吊るされていた薬草の束を揺らす。
「え……なんで……」
乾燥途中の葉が、ちぎれて宙を舞った。少年は呆然とその光景を見ている。立っていることが出来なくなり、地面に膝を着いた。風は弱まることなく、渦を巻いて小屋を取り囲んだ。
薬草が風に煽られ飛んでいくが、少年にはどうすることも出来なかった。昨日は名前を呼んで、願いの言葉があった。ただ名を呼ぶだけでこんなことになるとは思ってもいなかった。
「シルファ!」
小屋から飛び出してきたミラが、風に向かって呼び掛ける。次の瞬間、風は強引に抑え込まれるように歪み、流れが緩やかになった。宙を舞っていた薬草は、次々と地面に落ちる。ようやく風が収まった時には、小屋の周囲はひどい有り様だった。
「あ……ミラ……僕……」
喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。手は強く握りしめられ、指先は白くなっている。
「ちがうんだ……名前……名前を呼んだだけで、願ったわけじゃなくて……」
ようやく口から出たのは、ただの言い訳だ。役に立ちたかった。ただそれだけなのに。
「あなたのせいではありません。けれど、名前には重みがある。……あなたが呼ぶ時は、特に」
少年は俯く。名前の重み。だからリアは、一人で呼ばないようにと言った。
「あなたは、精霊具……教会が聖具と、神の恩寵と呼ぶものを知っていますね」
少年の目が見開かれる。ミラは伝えるべきか迷いながら口を開いた。
「閉じ込められた精霊の声。壊されていく音。あなたは、近くで聞いていたはず」
少年の心臓がぎゅっと痛む。何も出来ず、ただその音を聞いているだけだった自分。今でも鮮明に思い出せる、忘れられない音。
ミラはそんな少年を見つめる。その目には哀れみの色が浮かんでいた。
「あなたは精霊と共鳴しすぎる。それは危うい力です」
「共鳴……」
その時、戸口から音がした。リアが扉から顔を出し、外を覗いている。
「何があったの……?」
窓の外で吹き荒れていた風と、地面に散らばった薬草。何となく状況は察していたが、確認のために訊ねる。
「ごめんなさい……僕が、勝手に呼んだんだ……」
ミラが説明する前に、少年が口を開いた。
「名前を、呼んでしまった……」
一緒にいる時だけと言われていたのに。言葉の途中で、声が詰まる。怒られる、呆れられる、失望される。リアの顔を見るのが怖かった。
リアはしばらく地面に落ちた薬草を見回し、そして静かに言った。
「そっか」
「約束、破ったのに……怒らないの?」
「怒らないよ」
不安そうに聞く少年に、リアははっきりと断言する。少年の気持ちは、何となく分かったからだ。彼がいたずらに精霊を呼ぶはずがない。
「私がゆっくり出来るように、手伝ってくれようとしたんだね」
「……うん」
「その気持ちはすごい嬉しい。だから、今度は一緒にやろう」
その言葉に、少年はようやく顔を上げる。今度という言葉に、こんな失敗をした自分でも、また一緒にやろうと言ってもらえた。それだけで救われる気持ちだった。
リアは近くに落ちていた薬草の束を拾って、痛み具合を確認する。そして丁寧に土を払った。
「うん、これはまだ使えそう。こっちはちょっと葉が破けちゃってるけど、刻んで使えば大丈夫」
その言葉を聞いて、少年も慌てて落ちていた薬草を拾う。それから三人は、静かに小屋の周りに落ちていた薬草を拾い集めた。
「よし、これくらいで良いかな」
「あの、リア。本当にごめんなさい」
「精霊も張り切りすぎじゃうことがあるんだね」
「え……?」
今は本当の理由は知らなくていい。リアはそれ以上何も言わず、薬草を抱えて小屋の中へと入る。少年も慌ててその後を追った。残されたミラは、精霊が落ち着いていることを確認する。
張り切り過ぎたわけではない。応えようとしたわけでもない。
彼の力に、触れてしまった。
ミラは王都の方角を一瞥してから、小屋の中へ入った。
精霊の暴走でした。




