93話 貴方は高潔ですか?[1/2]
ネアポリスの海沿いにあるピソ様が所有する広大な別荘。
今は既にヘルクラネイムの灰の中に沈んでしまったパピルス荘に比べれば小さいとピソ様が語るものの、俺から見れば十分に大規模に思える別荘。
本日、そんなピソ様の別荘の中庭には、旧ポンペイの有力者たち――つまり、噴火の混乱の中で真っ先に逃げ出した都市参事会員を始めとする面々が集められていた。
彼らが事前にピソの使者から聞かされていた主題は『カンパニア救済員会におけるポンペイ復興案についての協議』というもの。
『我が家は代々受け継いできたワイン農場も、ポンペイの不動産もすべてあの分厚い灰の下だ。今あるのは手元のわずかな金貨と貴金属、生き延びた奴隷だけ。農場の奴隷こそ機転の利く農場管理奴隷が逃がしたおかげで無事だったが……これからどうやって一族を養っていけばいいのだ……』
『嘆いていても始まらんだろう。私は幸い、プテオリの港にいくつか荷下ろし前の交易船が残っていたし、ネアポリスの商館にもいくらかの預金もある。ポンペイの店と在庫は完全に消え去ったが、生き残った被保護者の職人と奴隷さえ集め直せば、まだ商売の再起は可能だ』
『そういう意味でも、今日のピソ様の招集には期待したいところだな。元老院議員が出てきたということは、ドミティアヌス殿下による当座の指揮は終わり、実務が動くと言う事だろう? あとはカンパニア救済のための予算が、我々にどれだけ割り当てられるかだが……』
『そんなもの待っていられるか! やはりここはウンブリキウス殿に庇護してもらうほかはないのではないか? ……彼も魚醤事業に大きな痛手を受けたが、この前運び込んできた支援物資の量を見るに財はかなりローマに移っていたのだろう?』
『いや、あれはウンブリキウス殿というよりもデキムス殿だ。今取り入るならデキムス――いや、サギッタ殿やフェリクス殿だぞ。彼らの資産の大半はローマで無傷、なんなら今や飛ぶ鳥を落とす勢いだと聞くからな』
そしてそんな有力者たちは中庭で元々の派閥ごとに集まり、主催者であるピソ様の準備が整うまでの間に、それぞれの不安や打算の雑談に花を咲かせていた。
俺はそんな打算の声が四方八方で聞こえる中庭を水瓶を持ちながら横切っていく。
ポンペイにいたころとは異なり、俺が横切ると彼らは一瞬雑談が途切れたり、こちらに明らかに視線が向いたりする。
俺は俺で100万セステルティウスの奴隷としてすでにポンペイでは知らぬものがいない知名度を持っており、彼ら的には彼らが集ろうとしているデキムスさんのほぼ親類同然なわけで、その反応は当然なのだが、今は特に彼らに対応する理由もないのでその視線を無視して先に進む。
そうして中庭を進んで行くと、ここに集まった旧ポンペイ上流階級の中でも要人と呼べる人たちが集っている一角にたどり着く。
その中心には三人の見知った顔。
――デキムスさんと、フェリクスのおっちゃん、そしてアウ爺が旧ポンペイの要人に囲まれるようにして談笑していた。
理由は語るまでもない、現時点においてポンペイ要人の中で頭一つ抜けて財力を維持できているのがこの3人だからだ。
特にデキムスさんは今や、麦の蜜と化粧品事業によって、製造業という業種で見れば、ローマでも有数の巨大商人へと変貌を遂げつつある。
単純に自家の再興のための資金援助を求めるもよし、自らの残った財産や被保護者の活用先として取り入るもよし。
自力での再興がすでに難しい者や、多くの被保護者を抱えるがゆえにその重さで沈みかけている要人にとってデキムスさんは、沈没船から放り出された後に見えた強靭なガレー船のように見えていることだろう。
そしてもう一方、フェリクスのおっちゃん。
おっちゃんはルクレティアお嬢様がネアポリス入りした数日前に、お嬢様によってドラコさんのような他の我が家の主要な高級奴隷と共に正式に奴隷から解放され、解放奴隷身分となった。
当然ながらデキムス工房立ち上げ時におっちゃんが持っていたペクリウムはそのままおっちゃんの私財となる。
単純な財力で言えばデキムスさん、以前からの縁で言えばフェリクスのおっちゃんかアウ爺と深い誼を結ぼうと殺到するのは、極めて自然な流れだった。
「おお、フェリクス殿! 解放おめでとう!」
「ポリビウス殿」
「いやあ、マルクス殿が亡くなられたのは本当に無念だが、君のような有能な男がルクレティウス家を支えていれば、きっと――」
そして3人の周りに集まる人々の中でも、マルクス様と共に今年のポンペイ二人官を務めていたガイウス・ユリウス・ポリビウスは、額に脂汗を浮かべながら、解放されたばかりの元奴隷であるおっちゃんに、へりくだるように食いついていた。
二人官という地位にありながら民を置き去りにして逃げたのにも関わらず、最後まで町に残り命を落としたマルクス様を利用して保身を図ろうとするその態度に、フェリクスのおっちゃんは明らかにピキっている。
よく見ると、着慣れていないトガの下に見え隠れしているおっちゃんのこぶしは強く握りしめられていた。
止まる理由がなければ外聞をかなぐり捨ててポリビウスを殴り飛ばしていたことだろう。
それをしないのは、ひとえに事前のお嬢様による『いい顔してニコニコしていなさい』という命令によるもの。
俺としてもフェリクスのおっちゃんとしても、まだ噴火直後の件でしこりが残っていることもあり、あまりフェリスクのおっちゃんと話すのも気が引けたため、そのままフェリクスのおっちゃんから視線を外してデキムスさんの横に収まる。
「あ、これはこれは……もう隣の君は『サギッタ殿』とお呼びした方が良いのかな?」
そしてポンペイの有力者視点ではまだデキムスさんの未来の義理の息子である俺がデキムスさんの横に現れたところで、ポリビウスは俺にターゲットを移したのか、俺への賛美の言葉をかけようとする。
「ははは……」
「……あぁ失礼、まだ少し早――」
そしてルシアから妾チェンジを聞かされているがゆえに乾いた笑いを浮かべるデキムスさんの表情を自分の常識に当てはめて別な勘違いをしたのか、更に言葉を被せようとしてくるポリビウス。
「噴火の混乱から時間が経ち、さぞ絶望の淵に居るかと思えば、元気なことだな」
しかしそんな言葉は、高慢な雰囲気を纏う声によってかき消される。
「ド、ドミティアヌス殿下……!?な、なぜここに!?」
そこにいたのはこの別荘の主、ピソ様を引き連れたドミさん。
そしてドミさんの側には純白のトゥニカと青いヒヤシンスの刺繍の外衣を羽織ったルクレティアお嬢様。
おそらくポリビウスが会いたくない人物ナンバーワンであるルクレティアお嬢様が唐突に表れたことにより、ポリビウスの表情は一気に挙動不審となる。
「なぜも何も、私がカンパニア救済員会の責任者なのだ。ポンペイ復興のための集まりなのだ。私がいて当然だろう?」
そんな様子を小ばかにするように、鼻を鳴らしながら言い放つドミさん。
さあ、ポンペイの有力者に特大の鎖を嵌める会、はーじまーるよー。




