87話 千載一遇の好機
ヴェスヴィウス山噴火の報より数週間。
表面上は例年通りにローマ大祭が執り行われ、戦車レースや剣闘士試合に熱中しているそぶりを見せるローマ市内だが、その内実は噴火以降続く不気味な靄のかかった空や、例年よりも明らかに冷え込みの早い気温などへの怯えが町中を覆いつつある。
しかし、そんな市内に漂う暗雲の対価を受け取ったかのように、デキムス邸へ向かう輿の中で、このティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスの心はかつてないほどの高揚感に包まれていた。
風が吹いているのだ。
間違いなく今の私には、まさに運命の女神フォルトゥーナが私の周りを通り過ぎることもなく、私の周りで私に向けてわざわざ微笑みかけている。
好機の内容は、皇帝の地位を得る機会。
そう……長年、決して超えられない壁であった偉大なる兄ティトゥスに代わって帝国の頂点に立つという千載一遇の好機が巡ってきたのだ。
風の吹き始めは、先月のこと。
兄が愛する老婆――ユダヤの王女、ベレニケの件を巡ってリエーティの別荘で父と兄が大喧嘩をしたとき。
父上の『いい加減にあの女を東方へ送り返せ』との言葉は、苛烈な一面がある兄上の心に火をつけ『彼女なしでは重責に耐えられぬ』と声を荒らげた。
そこからは口論が過熱し、いつもは絶対に父に手を上げようとすることはなかったあの兄上が、こぶしを振り上げ、慌てて周りの者が止めにかかるほどの一触即発の状態に。
そんな父と兄の大喧嘩に居合わせた私は――チャンスだと思った。
父はネロ帝以後、10年の歳月をかけてようやく安定期に入った政情を、一個人の私情のために棒に振る要素を許容することは絶対にありえないだろう。
しかし兄は、皇帝の地位と一人の女を天秤にかけてなお捨てられないほどに、あの老婆を深く愛してしまっている。
そして―――私には、愛と忠義の奴隷、ルシウスという縁がある。
私が兄の愛を応援するために皇帝になることを志すと言ったならば、私に対し恩義を持つ彼ならば絶対に、主家となるルクレティウス家を説き伏せてでも、私のもとにはせ参じる。
そう思った私は翌日には彼にその話を切り出し、私の予想通りルシウスは主家への伺いを申し出てきた。
そして――おそらくはルシウスとの話をしていたまさにその時、私が皇帝になることが運命だとでもいうかのように、カンパニア地方のヴェスヴィウス山が大噴火を起こした。
山が火を噴き、大地が揺れ、灰が世界の空を覆いつくす。
ルシウスの故郷であるポンペイ、元老院を始めとするローマ上流階級の別荘地として有名なヘルクラネウムといった豊かな都市が一瞬にして消え去った。
それはまるで、時代の変わり目の嵐としか言いようがない。
この未曾有の大災害を前に、父ウェスパシアヌスの反応は迅速だった。
父は即座に『次期皇帝たるティトゥスが、外国の王族に誘惑され篭絡されたことにより、神々から勘気を被った』という口実で元老院から突き上げを食らう可能性と結びつけたのだ。
それをあらかじめ防ぐため、表向きは『過労による急病』とし、兄とベレニケをリエーティの別荘に押し込め、事実上の軟禁状態に置いた。
対して、この私には『カンパニア地方救済のための緊急委員会の組成』を命じてきたのだ。
この私に、この未曾有の災害を捌いてみろと、目がそう言っていた。
おそらく、私が皇帝になる力があるのかを見極めるためであろう。
そして復興のための道すじを私が示した時、同時に私が兄を差し置いて皇帝になるための道も開ける。
だが、そこで開けるのはあくまで道だけ。
私が皇帝になるにはあと1歩、いや2歩足りない。
ルシウスに相談した、内政と軍事の成果だ。
まず現状を把握するために現地入りし、皇帝の代理人として様々な命令をプリニウスが現地に連れてきていたデキムス学校に縁のある官僚たちの意見を聞きつつ飛ばしている間、私は次の手にやきもきし続けていた。
そして今日、その最後の、私が皇帝になるための道の材料――ルシウスからの使者が、ネアポリスからローマに戻った私にやってきた。
内容は『リエーティでの件について返答をしたい』というもの。
噴火によって有耶無耶になっていた、あの日の返答。
おそらく、屋敷でルシウスが申し出るのは私が皇帝の地位を得ることへの協力――だけではないだろう。
彼の主家であるポンペイ騎士階級のルクレティウス家は、ローマに滞在している未成年のご令嬢――我が息子コルブロの学友であるルクレティア嬢ただ一人残して全滅したという。
そしてルクレティウス家は、彼が愛を誓ったルシアという娘の家、ムニウス・サギッタ家、つまりはデキムスの庇護者だった。
しかし、ルクレティウス家はもうない。ポンペイと共に、文字通り消え去ったのだ。
庇護者の居ない大商家など、強欲なローマの貴族たちの前では夜のトランステヴェレ地区の路地裏で薄着の美女が歩いているようなものだ。
早晩、すべてを奪われても不思議ではない。
そんな状況下で、デキムスを庇護できる存在は?
言うまでもない。私だ。
私の次期皇帝指名へ全面的に協力する。
その対価として、デキムスへの庇護を求めに来たに違いないのだ。
「ふふ、愛らしい男よ」
私は輿の覆いから遠目に見え始めたデキムス邸を片目で見ながら、ひとり呟いた。
これでルシウスはルクレティウス家という足枷から解放され、私の師でもあるデキムス――ムニウス・サギッタ家の娘婿になる。
そうなった暁には、彼を私の内向きの側近として重用してやることもできる。
いや……いっそのこと、ルシウスが解放される前に、騎士階級の証である『黄金の指輪』の権利を私が直接授けてやるのもいいかもしれない。
アウグストゥス帝の病を治したアントニウス・ムサのように、解放奴隷が黄金の指輪の権利を授けられたという前例もある。
それならば、女神ミネルヴァの恩恵を身に浴びる私であれば前例をさらに超え、奴隷身分から直接黄金の指輪の権利を与えて、ルシウスを騎士階級に叙してしかるべきであろう。
「元老院もルシウスの英知の恩恵を受けている者たちだ、嫌とは言うまい」
ルシウスが生み出した麦の蜜や化粧品の有限責任組合は、まだ元老院にとっては微々たる権益に過ぎない。
が、法人税制度とセットになった業種ごとの許認可権、そして何より有限責任という概念により生み出される利益はすぐに巨大なものになるだろう。
そんな、奴らの餌場を広げたルシウスに対し、恩賞として黄金の指輪を付与することは、奴らにとっても決して悪い話ではないはずだ。
むしろ、彼がこれからも生み出し続けるであろう膨大な利益という飴を前に、黄金の指輪の権利に賛同することで餌場の最前列に陣取れると考え、その提案をする私に感謝すらするだろう。
元老院は富をルシウスに投じ、金貨を積み上げ、元老院階級からの富を使ってルシウスが生み出す果実は私が手に入れる。
元老院の顔色を窺ってばかりの父にかつては不満を抱いていたが、今ならわかる。
これが、父が目指していた元老院との共存というものだろう。
そんな心地よい想像に胸を膨らませていると、やがて輿が静かに停止した。
「殿下、到着いたしました」
「うむ」
召使奴隷の声に短く返事をし、私はデキムス邸の前に降り立つ。
そしてそのまま邸宅の門をくぐり――ふと足を止めた。
「……ん?」
幾度となくこの門をくぐったときには感じなかった匂いが、今日はあった。
切りたてのオークウッドのような、芳醇で温かみのある木の香り。
何とも清々しく、それでいて重厚な威厳を感じさせる香り。
不思議に思いながらも、出迎えに現れたデキムスの娘ルシアに案内され、私は邸宅の奥、執務室へと進んでいった。
そして、カーテンで仕切られた執務室の前に立つと、今度は月桂樹の香りが漂ってくる。
先ほどの入り口のオーク木の香りと、月桂樹の香りが絶妙に混ざり合い、まるでユピテル神殿の奥深くにでも足を踏み入れたかのような、神聖で厳かな雰囲気を感じる。
「なるほど……私への協力を、香りでも現したのだな、ルシウスよ」
そう言えばこの屋敷には調香師として有名な貿易商コスムスも出入りしていたな。
そんなことを考えながらカーテンをくぐり、執務室の中へ。
「………………?ルシウス?」
しかし、執務室のルシウスがいつもいる執務机にはルシウスの姿はなく、
「殿下、ようこそいらっしゃいました」
執務室の壁際にある長椅子の方向から、まだ幼さを残す少女の声。
声の方向に振り向くと、そこに居たのは、小柄な少女。
「ルクレティア嬢……」
ルクレティウス家の唯一の生き残り――ルクレティア・フロンティーナだ。
灰色の刺繍がされた白い真麻のトゥニカ。そしてまとめ上げられた髪には――フクロウの羽。
まるで、自らが女神ミネルヴァの使いであるかの装い。
「殿下、ルシウスの主人であるこのルクレティア・フロンティーナ。殿下に非常に魅力的なご提案を差し上げるべく、お待ち申し上げておりました」
「……なんだ、言ってみろ」
何故この少女がルシウスの執務室に居直っているのか。
何故、こいつは私にとって特別な意味を持つ存在を示唆する装いをしているのか。
そんな思いから、自然と私の声色は棘のあるものとなる。
しかしそんな私の威圧感を含んだ言葉を意に介さず、ルシウスの執務室に居直るその少女は、私に向かって微笑み、
「……私のルシウスの忠誠、欲しくはありませんか?」
迷いのない瞳を向けてそう言い放った。




