88話 非常に魅力的な取引[1/2]
「ルシウスの忠誠だと?」
彼女が放ったその言葉を受け、私は冷たく鼻を鳴らした。
「えぇ」
そんな私に、ルクレティア嬢は目を細めながら微笑む。
「殿下がたった一つのことをするだけで、彼の忠誠の全ては殿下、ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス様ただ一人の元へ向けられますわ」
ルクレティア嬢の言葉には、どこか余裕すら感じる。
「ふん。一つのこと、か。それでこの私にルシウスの忠誠を向けることが、お嬢さんの助力で成る、と?」
「その通りでございます殿下。私であれば、このルクレティアであればこそ、可能なのです。殿下」
言外に自らの助力がなければ難しいであろうアピールするルクレティア嬢。
所詮強がりであろうが、彼女のその必死の演技に敬意を表し、私は執務室の中央にある丸テーブル横の椅子にドカっと腰を下ろした。
「財も力も失った形ばかりの主家のご令嬢に、一体何ができるのだねお嬢さん。君のような足手まといの助力などなくとも、今やただの迷い犬となったルシウスの忠誠は、この私が直接もらい受けるよ」
当主と跡取りを失い、地場となるポンペイすら消滅したルクレティウス家そのものは、今のローマ政界においては何の価値もない。
精々がかすかに残ったポンペイの生き残りへの伝手や、彼女自身が持つ『悲劇の令嬢』という名声を利用し、形式上彼女を救ったというわずかな名声目当ての強欲なハイエナどもに食い荒らされるのを待つだけの、哀れな獲物に過ぎないのだ。
しかし、そんな私の侮蔑の視線と言葉にも、彼女は余裕の微笑の演技を崩さない。
「……まず、殿下は二つほど読み違いをなされていますわ」
「ほぅ……読み違いかね?つづけたまえ」
「まず、ひとつ。殿下と同じように、デキムスと親しいプリニウス様を始めとする皆様……それに、元老院階級の方々――我が家の庇護者たるピソ家が、まったく同じことを考えないとでも?」
ピソ家。
その名が出た瞬間、私の眉がピクリと動いた。
父ウェスパシアヌスのかつての政敵の一人であり、ネロ帝以降の度重なる失策で全盛期に比べれば著しくその権勢は衰退し大人しくしてはいるものの、元老院内でいまだ一定の影響力を持つ帝国屈指の名門。
ルクレティウス家は確かにピソ家と縁が深かった。
もしピソ家がルクレティア嬢をルシウスごと囲い込み、軍と接近し、共和派勢力の復権を試みたら?
厄介なことになる。
そしてもっと厄介なのは、プリニウスだ。
ルシウスが奴隷身分である現在においても、ルシウスを友と呼ぶのを憚らない偏屈者。
奴は純粋にルシウスの知恵だけを欲している故、動く場合はかなりの破格の条件を付けてくるだろう。
その上、何よりこの屋敷自体奴の物であることからもわかる通り、下手をすれば私よりもルシウスと親しい。
同時に提案をされた場合、私とプリニウス、どちらの手を取るかは読めぬ……。
仮にプリニウスの手を取ったとて、ルシウスは帝位獲得のための協力はプリニウスを説得してでもしてくれるであろうが、私が最も欲するルシウスの忠誠はプリニウスに向いてしまう。
ルシウスの忠誠を向ける先が宙ぶらりんとなっている今、その新たな向け先となれぬのは到底許容できない。
思索に沈み始める私。
「そして、ふたつ目」
それを引き留めるかのように、ルクレティア嬢は私を見据えて言葉を紡ぎ続ける。
「――ルシウスが、たかが主家が財のほぼすべてを失い、私を除いて一族の全てが死に絶えた程度で、その忠誠を失うと、本当にお思いで?」
「……!!」
彼女の言葉に、私は後頭部を大石で殴りつけられたかのような衝撃を錯覚する。
そうだ、私は何という思い違いをしていたのだ。
父ウェスパシアヌスが提案した、当時確実に次期皇帝になるであろう兄ティトゥスへの仕官話を、私へ向ける恩義ただそれ一つで奴隷の身でありながら一蹴する。
一度これと定めた筋は絶対に曲げない。
「一族が私のみとなった今……ルシウスの忠義はこの私、ルクレティア・フロンティーナと、父が残した『ルクレティウス家』という家名にのみ向けられていますわ。……主家の力が云々は彼にとっては、こと忠義の向け先としては考慮すべき事柄ではないのです。彼は、主家が力を失った程度で、自らの忠誠を捨て去るような薄情な者ではありませんわ」
彼女の言う通りだ。
それがルシウスのありよう。
一度忠義を向けられれば絶対的な味方であるという確信。
それが私がルシウスを欲する理由。
「……そう、そうだったな」
私は無意識のうちに呟いていた。
そして改めて、『魅力的な提案』をもってきたと初めに言い放った少女を見据える。
「だが、今の君の言葉を借りるなら……君が存在し、ルクレティウス家が存在する限り、私はルシウスから忠義を得られないということになるが?――いっそのこと、君を何らかの手で亡き者にした方が私に忠義を向けられる可能性が出てくるのではないか?」
「いいえ、殿下。そんな明るみになればルシウスが殿下の絶対的な敵になる危うい策など取らずとも、私を使うことで殿下は容易に、しかも確実に彼からの忠義を独占できますわ」
私の直球の脅しにも意を介さず、香炉に香油を足しながら私の問いに返答するルクレティア嬢。
足した香油はオークウッドのようで、土っぽくも温かみのある香りが立ち上がってくる。
だが、オークウッドにしては少し花のような香りもする。
ティリアの花、か?
「……つづけたまえ」
香りにのせられたルクレティア嬢の意図は読めぬが、とりあえずは彼女に続きを促してみる。
「では――」
そこからルクレティア嬢の口から語られたのは、およそ少女の口から出るとは思えないほど緻密な政治的算段。




