82話[2章番外]マルクス・ルクレティウス・フロントの最期
まるで世界そのものが粉々に砕け散り、崩れ落ちているかのように、空から灰が際限なく降り注いでくる。
「すぐに戻ってまいりますーーー!!!ご主人ーーーー待っていてくださーーーい!!!!」
そんな悪夢のような光景の中、私の忠実な家財管理奴隷であるフェリクスを乗せた小舟が、うすぼんやりとした灰の雲の彼方へと奴の声と共に消えていく。
「――……頼んだぞ、フェリクス……!!」
沖合に待避させておいた徴用したガレー商船を呼び戻すべく港を離れたその小さな船を見つめながら、私は小さく呟いた。
そして船が完全に見えなくなり、港にいるのが私……ポンペイの町に唯一残った騎士階級であるマルクス・ルクレティウス・フロントただ一人になった瞬間、強烈な不安感が背中を撫でてくる。
目の前にあるポンペイの港は、既に普段の姿を留めてはいなかった。
海面には大量の軽石が浮き、どこからが海辺で、どこからが陸かすら、もうわからない。
この有様で、本当に我々を乗せられるガレー商船は港までたどり着けるのだろうか。
「……えぇい!考えても無駄だ」
私は背中を走る恐怖を押し殺すために、海の方角から踵を返し、再びポンペイの中心である広場へと歩みを進めた。
足元には既に膝の高さまで軽石と灰が降り積もっており、一歩を踏み出すのにもひどく苦労する。
「ごほっ、ごほっ」
朝の霧をそのまま灰色にしたような空気は、布で口と鼻を覆っていなければむせ返ってしまうほど劣悪。
「本当に夜が明けたのか……?」
普段であれば時計を管理する奴隷が日中用の設定に切り替えて時を刻み続けるはずの広場の水時計は、その奴隷すら市外に避難させてしまったために、夜明けの時間を指したまま時を刻むのを止めてしまっていた。
少なくとも日の出の時間は過ぎているはず。
しかし、頭上を覆い尽くす分厚い噴煙の雲のせいで、空は真夜中のように暗いまま……。
私が広場に戻ってきたのを見て駆け寄ってくる、数名の衛兵たちが持つ松明の頼りない光だけが、周囲の惨状をかろうじて照らし出していた。
「ルクレティウス様、スタビア浴場に避難していた家族を三名発見、他の生存者同様、徴収したウンブリキウス邸に誘導済みです。しかし、これ以上は……」
私に報告をしてきたのは、この絶望的な状況下にあっても職務を放棄せず私に付き従ってくれている数名の衛兵たち。
顔は灰で黒く汚れ、夜を徹しての避難誘導、逃げ遅れた者の捜索で疲労は極限に達しているのは一目でわかる。
だが、それでも彼らの目にはまだ使命感が宿っていた。
「ご苦労だった。だが、迎えの船が港に来るまでにはまだ時間がある。ぎりぎりまで探し、やれることをやり切ってから町を離れるぞ」
「「はっ」」
私の指示に従い、再び通りに消えていく衛兵たち。
デキムス商会が真っ先にポンペイ避難を決断したことにより、ルクレティウス家の名を落とさぬためになし崩し的に最後まで残らざるを得なくなってしまった私とは違い、彼らは純粋な、自らの矜持のみによって市内に残っている。
その高潔な魂の眩しさに、私は深い敬意を抱かずにはいられない。
「……それに比べ、ポリビウス、それに都市参事会の腰抜け共め」
もはや口に出すのすら嫌悪すべき存在になり果てた者どもへの愚痴が思わず口からこぼれる。
私とペアで今年の二人官を務めていたガイウス・ユリウス・ポリビウスや、都市参事会員を始めとする町の上流階級たちは、デキムス商会やウンブリキウスの工房がもぬけの殻となっているのを知るや否や、こういう時にこそ高貴な者が背負うべきすべての責務を早々に放棄し、まるで指揮官を失った雑兵のように我先にとポンペイから逃げ出していた。
「私がネアポリスまでたどり着いた時には覚えていろ。卑怯者どもめ」
これほどまでの未曾有の災害、必ずローマは救援を出してくる。
おそらく、執政官経験者、つまり要人クラスをだ。
そして、救援に来たその時、ローマが逃げ出した奴らをどう見るか。
最後までポンペイに残り、奴らのせいで崩壊した秩序を回復し、多くの市民を避難させた私と、逃げ出した奴ら。
「……フン、この『貸し』、安く済ませられると思うなよ」
既にネアポリスにたどり着いているであろう卑怯者どもへの処遇を考えながら、私は広場の奥、ユピテル神殿へと足を進めた。
昨日までは繫栄するポンペイの象徴でもあったユピテル神殿。
今のユピテル神殿は、まるでそれがはるか遠い昔の話であったかと錯覚させるほどに、無惨に半壊していた。
そして、司祭たちも都市参事会の者ども同様に、真っ先に逃げてしまっていた。
しかしそれが逆に、ポンペイの町の中で『死の匂い』がしない数少ない場所となっているのが、何とも皮肉なものだ。
そう思いながら、私は司祭たちの中で、逆に唯一逃げていてほしかった存在を探し、神殿の中を覗き込む。
が、運命の女神フォルトゥーナは、今日は私の願いを叶えてくれる予定はあまりないらしい。
私の視線の先には、上半分が崩れ落ちた神殿の太い円柱に背を預け、数人の奴隷に支えられるようにして立ちすくんでいる一人の司祭。
「……まだ残っていたのか、この頑固者め」
ユピテル神殿で司祭を務める我が息子に、私は悪態をつく。
息子は私が逃げろと言ったにもかかわらず、『逃げ遅れてしまいましてね。仕方がないので父上が脱出するまで、私は司祭としての責務を果たします』と嘯いて、ここに留まっていた。
「父上……」
私を呼ぶその声は、いつもの飄々とした軽薄な笑みではなく、ひどく弱々しい。
息子は、まだこの神殿の前の広場に人がごった返していた時からずっと『神は我々を見捨てていない。なぜならこのルクレティウスがまだ残っているからだ!』と最後のまとまった市民の集団が都市を出るその時まで鼓舞し続けていた。
流石に疲れが来ているのだろう。
「意地を張るからそうなる。もうすぐ脱出だ。それまでゆっくりしているが良い」
「……ようやく、ですか……しかし、少し遅かったようです」
そう言うと息子は静かに、自らのトガの袖を私に突き出す。
「……なっ!?」
私は、息を呑んだ。
差し出されたトガの袖には、べっとりと鮮血がこびりついていた。
「お前……みせろ!!!」
思わず息子が着ているトガをまくり上げると、右胸のあたりが紫色に変色していた。
「……昨夜、日付が変わる頃に神殿の屋根の一部が積もった軽石の重みに耐えられずに列柱の一部ごと倒壊したでしょう?」
「……まさか」
「その際、運悪く弾け飛んだ瓦礫の直撃を食らってしまいました」
そこまで言って、息子はゴホッと乾いた咳をした。
その唇の端から、一筋の赤い血が流れる。
「……多分、肺がダメですね、これは。……私の命はここまでのようです。死の女神モルスはエルコラーノ門で積みあがった人々だけでは足りなかったようです」
自らの命数が尽きつつある事実を、まるで他人事のように言う息子。
「……バカ者が」
私は、震える手で赤く染まった息子の手を握りしめた。
それ以上の言葉が出なかった。
悲しみ、悔恨、そしてここまで気丈に耐えた息子への誇り。
あらゆる感情が胸の奥で渦を巻き、激しい痛みとなって私を締め付けた。
息子が助からない。
その事実が、脱出後の道すじを考えていた私の野心を吹き飛ばす。
私がポンペイから脱出し、卑怯者どもを踏み台に栄達したとて……それを継承できる嫡子がいなければ意味がないではないか。
「お前が死んでしまうなら……意味がないではないか……!それでは、私は……何のために、こんなところに最後まで……」
絶望が、私の心を塗り潰していく。
「大丈夫ですよ、父上」
そんな私の手を、血まみれの息子の手が力強く握り返してきた。
いつものように飄々とした微笑を浮かべながら。
「……ルクレティアがいます。そして、ルシウスも」
ルシウス。
1年半前、プリニウス様の前で私への偽りの『本物の忠義』を平然とでっち上げ、ローマへと旅立っていった我が家の少年奴隷。
娘が定期的に寄越してくる手紙を信じるならば、すでに皇族――ドミティアヌス殿下とすら縁を結んでいる『怪物』。
「あの二人が生きている限り、ルクレティウス家は絶対に滅びませんよ」
穏やかな口調で、私にそう言う息子。
「なんせ、奴には『ちゃんとルクレティアを守らないと刺す』と言っておきましたから」
本気なのか冗談なのかわからない言葉をのたまう息子。
……どうやら、私が遠い将来に息子にすべてを託そうと思っていたように、すでに息子も託す相手を見つけていたらしい。
「そうか、ルシウスか」
「えぇ、ルシウスです……そして、どうやら本当に、終わりが来たようですよ、父上」
話の流れを遮り、息子は半壊した神殿の間から見えるヴェスヴィウス山の方を指さす。
指し示すその先には、先ほどヘルクラネウムの方に降りて行ったのと同じ……暗黒の雲が、山肌を恐ろしい速さで駆け下りてくるのが見えた。
直感的に、あれが私たちの『死』であると、私は悟った。
しかし、そこにすでに恐怖はなかった。
……託す先が、すでに見つかっていたからだろう。
私の興味は、迫りくる『死』ではなく、あの奴隷が描いていくであろう未来に移っていた。
「あとはルクレティアをルシウスに託しましょう、父上」
「………………そうだな」
息子がそこまで言うのだ。
あいつは、本当に私の愛娘、ルクレティアを見捨てないのだろう。
その方法が、自らの腹心にルクレティアを娶らせて操り人形にするか、はたまた、常識を覆して自らが直接あの娘を娶るかまでは分からぬが。
いや……むしろ怪物に娘を託すと決めたのだ、いっそのこと、ルクレティウスという名を飲み込んでくれた方がいいかもしれない。
やつなら、かつての全盛期のピソを凌駕するほどの名声を得ることだって、できるかもしれない。
本来ならば奴隷ごときに一族の未来を委ね……あまつさえ乗っ取られるなど、貴族として業腹の極みであるはずだ。
だが、不思議なことに、私の胸に怒りは一切湧いてこなかった。
むしろ、あの怪物に後を託すことで想像できた未来に、変な笑いさえ出てくる。
「は、ははは……精々苦労するがいい……」
それはルシウスに向けた言葉か、はたまた奴に巻き込まれるローマの上流階級に向けたものなのかは、口にしておきながら分からなかった。
だが、愉快であることは確かだった。
目前に迫る黒い雲の波が、ついにポンペイの城壁を越え、建物を次々と飲み込み始める。
轟音と熱風が広場に吹き込み、松明の火が掻き消される。
私の死は、もう瞬き一つ分の距離にまで迫っていた。
そして灼熱の灰が我々に降り注ぐその瞬間。
『お父様っ!!』
「ルクレティア……?」
私の脳裏に、屈託のない笑みを浮かべ、純白のトゥニカと黄橙色のベール、バラや色とりどりの花で作った花冠という花嫁姿のルクレティアの幻影が浮かび上がった。
それは、もう見ることのできない幻。
「花嫁姿、みたかったなぁ……」
何もかもを取り払った一人の人間になったとき、私は貴族ではなく、ただの父親であったらしい。
まあ、それも、悪くない。
黒い雲に飲み込まれ、意識が途切れる。
その時、私は、笑っていた。




