83話[2章番外]帝国軍の保健、能率および疫病管理に関する諸問題についての覚え書[1/2]
エスクイリーヌスの丘、プリニウス殿の邸宅の近くにある、デキムス・ムニウス・サギッタ邸。
若手の軍人や財務官の間では、会計学やインド式数学そして統計学を学べる『デキムス学校』として名声を集めつつあるこの邸宅。
特にインド式数学などはギリシア人数学者が連日狂喜乱舞しており、倍数判定法、少数、確率などの定理が日間レベルで発見されている。
そんなインド式数学ほどではないが、私ことペダニウス・ディオスコリデスが受け持つ統計学という学問も、軍人を中心に絶大な支持を集めつつある学問だ。
そう私自身、存在を知ってから1年に満たないこの統計学という学問は、まさに神の領域を数字に引きづり下ろす学問と言っても過言ではない。
神の采配と思われていたサイコロ遊びの勝敗が、数を増やすと一定の確率に収束していく。
同様に、薬が効いたり効かなかったりするとき、数を集めることによりその犯人が見えてくる。
それはまさに、木を見て森を見なかった自らの見識に蒙を啓かれた思いだった。
半年前、プリニウス殿に紹介されて知己を得た少年、ルシウスから統計という概念を流し込まれて以来、私は自らの今までの知見を統計という要素に当てはめて真理を特定することに夢中になっていた。
その集大成として、軍医である今までの経験を統計に落とし込んだものを、明日デキムス学校の受講生に発表することになっている。
発表内容は『帝国軍の保健、能率および疫病管理に関する諸問題についての覚え書』
この覚書に、ローマ軍の損耗率を劇的に低下させる内容が含まれていると、私は確信している。
私はあの日からすぐ、知己のある親しい軍団長に頭を下げ、環境を変えた複数の大隊を用意してもらい、数ヶ月にわたって徹底的な統計調査を行った。
そしてその結果、私の予想すら超える恐るべき残酷で希望に満ちた結論が導き出されていた。
覚え書の内容を簡単に整理するとこうだ。
第一に、軍団における死者の内訳。
コレラや赤痢といった病理による死者が多いことは軍医として知ってはいたが、無作為抽出による統計を取った結果、それは予想を遥かに超えた数だった。
場合によっては、戦死や戦傷の悪化に由来する死者数を上回る数の兵士が、ただ宿営しているだけで死んでいたのだ。
第二に、病理の爆発時期。
同一の野営地に概ね1週間以上滞在し始めると、罹患者数が急激に跳ね上がるリスクが数字として明確に現れた。
これは1週間を境として、何らかの要因が兵士に襲い掛かることを示している。
第三に、原因の特定とその対策。
1週間以上滞在する条件であっても、ある条件を満たすと、罹患確率は大幅に下がる。同一大隊内であってもだ。
それは少年ルシウスに提唱された公衆衛生という概念。
これは外科手術などで器具を煮沸する儀式などで器具を清潔に保つという概念を日常にも応用したものだ。
その対策を施した百人隊とそうでないもので有意な差が出たことに、私は戦慄した。
その対策とは『飲み水を一度沸騰させる』または『軍団野営地に小さな都市を作る』こと。
後者は一見難しいように感じるが、何のことはない。
都市が水道設備で水を清潔に保っているように、それを樽の中で再現するろ過装置を作ることによって都市と同等の『きれいな水』を確保し、炊事機能を持たせた馬車によりまるで百人隊に簡易的な食堂を持たせることにより『均一で安全な食事』を提供するということだ。
なお後者の案の内、ろ過装置については、プリニウス殿の紹介で水道設計に高い見識を持っておられるセクストゥス・ユリウス・フロンティヌス殿に知恵を借り、砂と炭を用いた実用的なものを編み出すことができた。
そしてもう一つ重要なのが『食事を便所から厳密に離れた風上で配給する』こと。
前者の2つの集団でも罹患率は下がったが、便所から厳密に離れた風上で食事をとらせることを徹底したグループはさらに有意に罹患率が減少した。
これらの3つの要素から考えられることはひとつ、疫病は今まで考えられていたよりも多くの兵を屠っており、更にその原因はその地の瘴気というあいまいなものが原因ではなく、野営地で使われる飲料水の水質がおそらく兵士自身の糞便により汚染されることにより発生するというもの。
そしてそれは、水を煮炊きすること、水を再度綺麗にすること、糞便から物理的に離れる事で完全にではないが、容易に防げること。
そして最後――第四に、現実的な落とし所の結論。
これらの比較の中でも水を沸騰させることは特に疫病への対策として有意であった。
しかし行軍中の兵士が摂取するすべての水を一度沸騰させてから供するのは、薪の消費量から考えて非現実的である。
ゆえに『ろ過樽装置と炊事機能付きの馬車を導入する』ことと『食事と便所の隔離』が、最も現実的かつ有効な対策となる。
しかしこれも百人隊単位に複数の馬車では行軍への影響が多すぎる。
それを考慮すると、1つの百人隊に対し、1組程度の「浄水炊事馬車」を随伴させることが、兵站への負荷というデメリットに兵の摩耗の減少というメリットが上回る、デキムス殿の言葉を借りるのであれば『損益分岐』となるラインだと考える。
これらが、私は半年間で出した、ローマ軍の損耗を劇的に抑え、帝国の戦力を底上げする真理。
しかし……。
「……これでは、伝わらん」
私は数字がびっしりと書き込まれたパピルスを前に、天井を見上げながら重い溜息を吐いた。
この邸宅に出入りしている受講生たちは、優秀な軍人や財務官ばかりだ。
だが……数学者ではない。
この文字と数字の羅列をそのまま渡しても、彼らが全体像を把握してその重要性を理解するまでには1日では到底足りない。
そもそも、読み込みだけで丸一日が終わってしまうだろう。
「ううむ、どうしたものか……」
「あー……今日も質問の嵐だった……――おや、そこにいらっしゃるのは、ディオスコリデス様?」
私が頭を抱えていると、談話室の扉が開き、午前の会計学の授業を終えた様子のデキムス殿が疲れた顔で入ってきた。
「おぉ、デキムス殿……ちょっと明日の発表で悩んでいましてな……」
「あー……半端な内容だと鬼詰めしてきますからね、受講生の方々は……」
そう言ってげっそりとした愛想笑いを浮かべるデキムス殿。
今日もこってりと自らの講義について、受講生からの質問攻めにあっていたのだろう。
……しかし午後にはケロッとしているあたり、立ち直りが早いのがこの御仁の凄いところだったりする。
「無作法ですが、少し脱力させていただきますね」
デキムス殿は、私が陣取るテーブルの反対に脱力気味に座り、さっそく回復に取り組み始めた様子だった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛…………」
心なしか口から白い靄のようなものが出ている気がするが、あれが彼なりの回復法なのだろう。
そっとしておいた方がいいな、と思った私は特に彼の様子には触れず、そのまま自らのパピルスに視線を戻そうとする。
すると、脱力しているデキムス殿が今テーブルに放り出したパピルスの紐が緩み、中の記載が私の目に入ってきた。
そこには、数字の羅列ではなく……四角い枠の中に上下で色が分かれた長方形が何個も奇妙な線と共に描かれていたり、円が中心から直線を引かれ、分割され、それぞれに色がついていたりといった様々な図形。
「この図形は一体……?」
私の疑問に、脱力した状態のデキムス殿が答えてくる。
「あーそれはですね……。ルシウスが私に教えてきたものでしてね。数字の大小や推移を図形にしたものです。例えばこの四角い枠にたくさんの二つの長方形があるもの。この縦の長さ全体が売上額で、下の長方形が利益の額、それを1年分、12個並べたものになります」
「数字を、視覚的な図形に置き換える!?」
「これだと売り上げや利益がどう推移してるかが一目瞭然でしょ?……いやぁアイツの頭の中はどうなってるんでしょうねえ」
その図形を見た瞬間、私の脳天に激しい落雷のような衝撃が走った。
これだ。これならば、対策を施した部隊とそうでない部隊の死者数の差、時間経過による罹患者の爆発的な増加、そして損益分岐の推移まで一目でわかる!
「デキムス殿!!今すぐこの図形の作り方を教えてくれ!!!」
「お、あ、はい?」
「助かる!!」
「……え?」
デキムス殿の快諾を聞き、さっそく私は白紙のパピルスを取り出し、デキムス殿の前に突き出した。
その日、私は新たな図形による数という新発見に震えながら、デキムス殿と共に徹夜の作業に没頭した。




