81話 貴方の全部、私によこしなさい
浴室を出て中庭に入ると、月桂樹の香りがした。
香りの元を探して中庭を見渡すと、執務室のカーテンの先に微かな明かり。
「……ルクレティアお嬢様」
「お帰りなさい、ルシウス」
カーテンをくぐり執務室に入ると、そこにはルクレティアお嬢様が長椅子に座り、目の前のテーブルに置いた香炉に月桂樹の精油をたらして香を焚いていた。
「ただいま戻りました、お嬢様。その……お加減は?」
「……この隈を見て『ご機嫌麗しゅう』とか言わなかっただけ褒めてあげるわ」
そう言って、理性の乗った声で俺に答えるルクレティアお嬢様。
しかし本人が言う通り、俺を見据える瞳の下には深い隈が浮かんでいる。
そしてその瞳には、いつもの自信満々な光はなく、まるで今夜のような深い深淵が広がっていた。
どう見ても寝不足で、無理をしているのは明らかだ。
「お嬢様……寝れてませんね?」
「貴方が膝枕をしてくれるなら、寝れる気がするわ」
「……それでお嬢様が安眠できるならばいくらでも」
「そ、じゃあ……話が終わったらお願いしようかしら。ルクレティウス家の今後について話した、そのあとにね」
そう言ってお嬢様は俺が予想していた通り、本題を切り出そうとする。
「噴火の前に、ピソ様にお願いしてお父様に向けて走らせた伝令がフェリクスからの連絡を持て来てるから。大体のことは分かっているわ」
「……お嬢様」
「もうルクレティウス家の血を引くものは、私、ひとり、ひとりなんだから……ルクレティウス家の、名を、名……」
お嬢様が身を乗り出したテーブルの上にぽたりと、水滴が落ちる。
「……お嬢様」
「なによ」
「泣いてらっしゃるのですか?」
「あ……え……」
俺の言葉で、お嬢様はその細い手で自らの頬に触れる。
そこで、自らの瞳から、とめどなく涙がこぼれ落ちていることに気づいたようだった。
「お気分がすぐれないなら、一旦俺が膝枕をしますので、一度お休みになられては……」
「なんで……」
「お嬢様……?」
「アンタが……ルシウスが帰ってくる前に泣ききってしまおうって思ってたのに、お父様や兄さま、おかあさまの死を知った、日から、今まで、涙なんて一滴も出なかったのに……」
そこまで言葉を紡いでお嬢様は俺から視線を外し、俯いてしまう。
「……どうしてこんな大事な時に涙が止まらないのよ……!」
「お嬢様……」
すぐにでも消え去ってしまいそうなお嬢様に、思わず俺は手が伸びる。
しかし、
「こないで」
俺が手を伸ばそうとしたのがわかったのか、お嬢様は拒絶の言葉を口にする。
「しかし」
「今アンタに触れられたら折れちゃう……嫌なの。私は折れるわけにはいかないの。そうじゃないと、ルクレティウスの名を守ろうとしたお父様たちの意志が無駄になるの……お願い、すぐに落ち着けるから、触らないで……」
「……わかりました」
お嬢様の言葉に、俺はお嬢様を触れようとする自らの手を引っ込める。
そうしてお嬢様は静かに、嗚咽を漏らすこともなく、ただただ瞳から大粒の涙をこぼし始める。
柱の向こうでは、飲み物をもってこようとしていたルシアが入り口の前で立ちすくみ、お嬢様の代わりかのように嗚咽を漏らして涙を流していた。
そしてそれはお嬢様の侍女、周りの女性奴隷へと伝染し、執務室の周りが女性の嗚咽の声で包まれる。
……。
…………。
………………。
そして数分が立った頃、ハンカチで涙をぬぐったお嬢様の目には、再び光が宿っていた。
「これからの話をするわよ」
そして、仕切り直しのように俺に向かって決意表明のように言葉を放つルクレティアお嬢様。
気分を切り替えるためか、お嬢様は月桂樹の精油が入っている香炉にバラの精油を足し、部屋にバラの甘い香りが微かに足され始める。
「まず……ルシウス。アンタは、誰のもの?」
そしてお嬢様はなぜか、過去何回か聞いてきたことのある質問を俺にしてきた。
主に、俺がルシアに対して何かをプレゼントした時やルシアとけんかしているときに、似たようなことをお嬢様は聞いてきた。
しかし、今の質問はそれとは毛色が違うように思える。
「あの、それはどういう……」
「いいから、あなたは、誰のものかしら?」
本意が分からず質問を聞き返すものの、お嬢様は回答を促すばかり。
「……お嬢様です。マルクス様、若様、奥様が全員亡くなられた今、奴隷という財産である俺は、ルクレティウス家の相続人たるお嬢様が相続される財産となります」
質問の意図がわからず、俺はとりあえず現状の法的な事実を述べることにする。
「そうね」
俺の返答にお嬢様は短く同意するものの、それに満足する様子もなく静かに目を閉じ、カーテンの向こうの中庭から見える真っ黒な空を見つめる。
「……でも、貴方は私から自らの鎖を買い取り、自由に羽ばたいていってしまう。あなたが去った後、ルクレティウス家に残るのは、金貨と貴方の元主人という権利のみ」
「…………」
「どうせ貴方のことだから、信頼できる相手に私を託せばよいとか思って、貴方に近しい人を婚姻相手にあてがおうとしたでしょ?……例えば小プリニウス様とか」
「……いけませんか?」
「ダメね、論外よ。却下よ」
「え……なぜ?……」
お嬢様が俺が婚姻相手をあてがおうとしていることを予測しているところまではあっていたものの、理性で判断しようとしているときにそれを拒絶するとは思っていなかった俺は、理由が分からずに聞き返す。
「小プリニウスさんならお嬢様をきっと大切に――」
「そうね、あの方なら、私に優しく接してくれるでしょうね。そして一緒にプリニウス様に振り回されながら、それでも穏やかに過ごせる未来も、十分見えるわ」
そうだ。プッさん譲りの勤勉さと好奇心を持ちながらも、プッさんに振り回されることによって振り回される側の苦労も知っている小プリニウスさんならば、ルクレティアお嬢様を十全に守ることができるはず。
「では、何が」
「ルクレティウスの名が消えるじゃないの。そんな事、絶対に許容できないわ」
「あ……」
「いくら貴方とプリニウス様が親しくとも、私が産む子供はプリニウス様の家系に組み込まれる。小プリニウス様が精いっぱいの誠意を見せてくれたとしても、せいぜいが、最近流行りの『二重氏族名』として、かつてポンペイにあった一族の名前が、ただの飾りとして残るだけ」
「たしかに、おっしゃる通りです……」
「ほら、やっぱり気づいていなかったじゃないの」
「……なら、どうすれば」
俺にはそれ以外の策がなかった。
しかし、現実問題として、ルクレティウス家……いやルクレティアお嬢様を政治的な安全域にお連れする方法は婚姻政策しかない。
「それを踏まえて、もう一度聞くわね。貴方は誰の……いや、この聞き方だと貴方は分からないか……貴方が私に向けている感情は、なあに?」
いきなり唯一の策がとん挫した俺に対し、お嬢様は質問を変えて俺に問うてくる。
「俺が……お嬢様に向けている感情?」
俺は答えを探したが、霞のようにぼやけた何かが思い浮かぶだけで、自分自身でもその正体を理解できない。
多分、忠義だと、思うんだけど……。
そんな煮え切らない俺を置いていくように、まるで犯人を追い詰める探偵のように、お嬢様は淡々と仮定を立てていく。
「最初はルクレティウス家の家族への忠義だと思った……でも貴方はルクレティウス家には忠義を持っていない」
「いえ、俺は……」
「貴方と何年一緒にいると思ってるの、嘘は通用しないわよ」
そう言って俺を見つめてくるお嬢様。
「……そうですね。俺は、別にルクレティウス家には忠義を持ってるわけではないです。ある程度の親しみは持っているけど、それだけですね」
その瞳を見て、言い逃れはできないと悟った俺は、正直な考えを言葉にすることにした。
その言葉に納得したお嬢様はそのまま問答を続ける。
「でしょう?……じゃあ、私への直接の忠義?」
「……はい」
「違うわね」
「え?」
「忠義というには私に何かするときに、私心が入りすぎてるわ。私のために手を尽くしてることは知っている。けど、それは忠義とは別だと私は思うわ」
「なら」
俺の、この……お嬢様に向ける感情は、いったい何なんだ?
「教えてあげる。貴方が私に向けるその感情、それは―――執着よ。それも貴方が思い描く『私の幸福』への、ね。そしておそらく、貴方はそれに自分の命並みか、それ以上に執着している」
「あ――――」
お嬢様の言葉に、俺は言語化できていなかった感情が、ストンと腹落ちした。
なるほど。執着。執着か。
だから俺はお嬢様の要望は極力かなえようとするし、長期的にお嬢様が不幸になりそうなことは目の前のお嬢様を無視してでも押し通す。
全ては俺が思い描く『お嬢様の幸福な人生』という風景を叶えるため。
「つまり貴方は私の物ではないけれど、貴方の物でもない。『私の人生の幸福』のものなのよ。なんでそうなったかは分からないけどね」
……そう言うお嬢様とは対照的に、俺には心当たりがあった。
おそらく俺がそうなったのは、前世の記憶を取り戻したときだ。
その時、俺は自身が助かるための計画と、それに加えてお嬢様だけは助ける計画を同列にしていた。
その時から、おそらく想いが混ざったのだろう。
「私には、私が幸福になるための策があるわ。ルクレティウス家の名を残し、私自身も幸福になる、策が」
そして、俺が心の中で納得したのを見たお嬢様は、本題を切り出してくる。
「それで、私の幸福な人生に執着している貴方は、どこまで差し出せるのかしら?」
まるで試すかのような表情を浮かべ、ぽた……ぽた……と、香炉にバラの精油を足しながら問うてくるルクレティアお嬢様。
「俺に差し出せるものなら何でも」
そんな問いに、俺は迷いなく言い切った。
俺がお嬢様に向けているものの正体が分かった以上、俺に躊躇する理由はない。
「ん?今なんでもっていったわね?」
俺の言葉に、お嬢様の声のトーンが落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
それと同時に、香炉から立ち上がるバラの香りが強くなった気がした。
「あ、やっぱり――」
「貴方の全部を、私によこしなさい」
本能的に危険を察知した俺は発言を撤回しようとするが時すでに遅し。
お嬢様は俺をまっすぐ見据えて言葉を被せる。
「その身も、財も……名声も、知識も、すべて私に寄越しなさい。もちろんタダなんて言わないわ。代わりに貴方には私と、ルクレティウス家を上げる」
そう言うお嬢様の瞳は、強い意志が灯っているはずなのに、その奥にはどろどろとした執着が渦巻いているように見えた。
「愛と忠義の奴隷は、最終的に忠義を取る。滅びゆく主家を救うために、黄金の指輪を得て、亡き主人の娘の『夫』となることで。―――ヴェスヴィウス山が噴火したのは都合が良かったわ。貴方を手に入れるチャンスが、やっと私にやってきたのだもの」
部屋には、香りで溺死しそうになるほどに濃厚なバラの香りが充満していた。
2章 ちみつな事業計画で最速奴隷解放RTA! <了>
→→継続攻略中:最速奴隷解放RTA
→→追加ミッション:黄金の指輪獲得RTA【NEW!!】
3章 黄金の指輪獲得RTA with 外付けアクセルを添えて に続く
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バラ:
ローマ人にとってバラは花の中でもひとおり特別視されることも多く、名誉や栄光の証である花冠などでも多用された。
一方でその美しさや華やかな香りは、それに人を魅了された人から漏れる『狂気』『狂愛』などとして表現されることも多い。
現代の我々が知る範囲では本数によって花言葉が変わるところなどだろう。
往々にして100本を超えていくとどんどんと意味が激重になってくる。
また、ルシウスたちが生きる時代の百年少しあと、23代皇帝ヘリオガバルスなどは大量のバラを用いて宴の参加者を溺死させたなどの狂気と関連付けられた逸話などもあったりする。
そして本質としてはギリシャ神話では女神フローラがニンフの亡骸をバラに変えたことからバラが生まれたという考えがあるように、ローマ人にとっては名誉や栄光であるとともに、弔いの花としての意味ももつ。




