80話 風呂入って落ち着こう
「お前のせいで若様とマルクス様は死んだんだよ!」
フェリクスのおっちゃんの、半ば慟哭に等しい糾弾。
それに対して、俺は答える言葉を持っていなかった。
何せ事実だ。
俺は噴火を知っていた。事実だ。夏に起こると知っていた。
知っていて言わなかった。事実だ。
自らのできる範囲、手のひらに収まる範囲だけはいつ噴火が起きてもいいように最低限の対策だけをして、その中には手のひらに収まらないルクレティウス家という存在を入れてなかった。
別に馬鹿正直にカサンドラになる必要すらない。
今の俺の立場なら、ポンペイの地位を上げるためなりなんなり理由をつけ、ドミティアヌス殿下なりなんなりを利用して夏場に若様やマルクス様、奥様を呼び寄せることだってできたのに。
今年に噴火がないと高をくくってそれをしなかったのは、俺だ。
それ故に、俺はフェリクスのおっちゃんに紡ぐ言葉が、見つからなかった。
かわりに耳鳴りがひどくなり、まるで自分自身を外から眺めているような感覚が広がっていく。
それはどんどん大きくなり、ある大きさを超えた時に、何故か逆に俺の心は何も感じなくなってしまった。
ネアポリスにたどり着いた時からあったはずの焦燥感が消え去り、胸中に不思議な平穏が訪れる。
「おまえの……お前さえいてくれれば……!!お前なら……!!!」
「もうやめろフェリクス!一旦邸宅に戻って頭を冷やせ!」
なおも詰め寄ろうとするフェリクスのおっちゃんを、ドラコさんが制止する。
そのまま泣き崩れてしまいそうになるおっちゃんを支えながら、俺に滞在先の家を伝えてから広場から立ち去っていくドラコさんを、まるで俺は他人事のとのように眺めていた。
それからの数日間のことは断片的にしか覚えていない。
皇帝の正式な救援隊として復興に関する全権を預かったドミティアヌス殿下が、俺たちの2日後に視察のためネアポリス入りし、俺たちにローマから必要物資の調達を命じ――
取り急ぎの物資として、BCP対策計画に基づいて、デキムス商会とアウ爺が持つネアポリスの倉庫の物資を殿下が率いる救援隊に供出し――
それを受けて、現地要人への聞き取りで初動で必要な物資の調査を終えたプッさんと共にローマに戻るべく馬車に乗り込み――
そして……
そして、えっと……なんだっけ?
「あ……家……」
気が付いた時にはローマの我が家の前にいた。
そうだ、街道まで乗っていた馬車からローマ市内用の輿に乗り換えて、ここまで帰ってきたんだ。
空を見ると、降灰の影響で真っ赤に染まり、ぼやけた太陽が地平線に沈みかけている。
視線を道の方にやると、ローマ市内から乗っていた輿がちょうど道の角へ消えていくところだった。
前を見ると、輿から降りた後に家に入るでもなく立ちすくんでいる俺に対し、門番奴隷が俺に声をかけるかかけまいか悩みながら、困っていた。
普段なら小粋なボケでもかましているところだが、今はなぜか浮かんでこない。
「……誰かいる?」
なので当たり障りのない言葉で門番に確認をする。
「あ……はい!……デキムス様はポンペイ救援物資の買い付けで外出中です。ルシアお嬢様は―――」
「ルシウス君!!!!」
「ぐっ!?」
「――ご在宅です」
「みたいだね」
俺は真横から俺の脇腹に生じた衝撃に一瞬うめき声を上げながら、門番さんから視線を外し、衝撃の主の方向に視線を移す。
「ルシウス君っ……!!やっと帰ってきた……!!」
そこには俺の身体に手を回し、力任せに抱き着きながら両目に大粒の涙を浮かべるルシア。
その表情を見て、俺は少し何かがチリつくのを感じる。
「ルシウス君。工房のみんなは無事なの!?屋敷に入ってくる情報はポンペイが消えたとか、陛下がカンパニア地方救済のための緊急委員会を結成したとか……ねえ何が起こってるの?ティトゥス殿下が急病で倒れたって噂も出回ってるし、もうわけわかんないよ!!」
「……工房のみんなは無事だよ」
「そうなの!?よかった!!ねえルシウス君……これから私たち、どうなるの?ポンペイ無くなっちゃったらこの屋敷も維持できないんじゃないの?」
「それは大丈夫。デキムス商会の資産のほとんどは、今やローマにあるから」
ポンペイにあるもので失うとダメージが大きいものは人材だが、そちらもフォルトゥナータさんから工房関係者は全員無事という情報は得ている。
最初に工房で雇った足の悪い女性奴隷を含めてだ。
……そう、ルクレティウス家を除いた人的被害はほぼゼロに近いのだ。
「そうなの!?…………よかったぁ」
俺の返答を聞いたルシアは、急に安心したせいか、ヘナヘナとそのまま腰が抜けたかのようにへたり込んでしまう。
「デキムスさんが救援物資を買い付けに回ってるってことは、アウ爺あたりのルートから情報が入ってそうなものだけど」
「私にはぜんっぜん情報来てないよ!!お父ちゃんに聞こうにもここ数日は声をかける暇もないし、ルクレティアお嬢様は全部知ってるみたいだけど、ずっと我が家に滞在しているのにお風呂の時以外はずっと引きこもっちゃって何にも答えてくれないし!!!」
「っ!」
ルクレティアお嬢様。
ルシアが口にしたその名に俺は心臓が一気に跳ね、凍った感情が一瞬で融解し、脳に指向性を持った感情の炎が灯るのを感じる。
そうだ。俺は一体何をしていた? ただ目の前の失敗に呆然として、何か手を打つでもなく立ち止まってしまっていた。
それは今の俺に許される行動ではない。
ちゃんとしろ。お前の優先順位を見誤るな。
状況を整理しろ。後悔や懺悔は後でしろ。
灯った感情が負の方向に向かわないように自らを誘導し、策を練るリソースを確保しながらルシアの方を向き直る。
「お嬢様が我が家に?」
「そうだよ!リエーティからローマに戻ったとき、ピソ様の邸宅に帰るのかと思ったら一回だけピソ様の邸宅に行ったと思ったらそのまま我が家に籠りっぱなし!」
「ピソ様の邸宅から退去したってことか……」
「退去かはわかんない……お父ちゃんやウンブリキウス様も『そっとして差し上げなさい』としかいってくれないんだもん。だから私はルクレティアお嬢様なんでここに引きこもってるのかはわかんないよ。でも籠りっぱなしは良くないし、ルシウス君早く屋敷に入ってお嬢様を部屋から連れ出してくれない?」
「……わかった。その前に風呂に入ってもいいか?正直くたくたなんだ」
「あ、そうだよね……!大丈夫!いつルシウス君が帰ってきてもいいように熱浴室の湯も、冷水浴室の冷水もずっと張ってあるよ!じゃあルシウス君の着替え取ってくるね!……あ、背中流そっか?それとも……一緒に入る?こ、婚約者なんだし」
「……ごめん、一人で入りたいんだ」
「そっかー……ざんねん」
そう言って俺の着替えを取るために屋敷の中に走って行ってしまうルシアを片目に、俺もそのまま玄関をくぐり、そのまま浴室へと足を進める。
そして熱浴室に入り、そのまま軽く身体を浴槽の熱い湯で流した後、そのまま熱い湯の浴槽……ではなくもう一つの部屋、冷水浴室の水風呂の方に身を沈める。
身体に張り付いた汗が湯で流され、夏の熱気で茹っていた頭が明晰になる。
そして俺は、先ほどポンポンとルシアが出してきた情報から、お嬢様の現状を分析する。
お嬢様がリエーティの避暑を切り上げた後に一瞬ピソ家に寄り、その後この家に滞在しているのは、おそらく一家の訃報を知ったからに違いない。
ピソ家はローマにおけるルクレティウス家の庇護者ではあるものの、直系一族が全滅した現在において完全な味方かというとそうは言い切れない。
少なくともそのままピソ邸に滞在していては、なし崩し的にピソに後見される形になる。
それはお嬢様自身で何かを選択する手段を喪失することを意味する。
ドミティアヌス殿下の擁立問題という特大の政治問題がある今、それは致命的な結果を招きかねないとお嬢様は判断したのだろう。
それ故に、数日以内であれば確実に味方であるデキムス商会――いや、自らの意志で自由にできるルクレティウス家の奴隷である俺が実質的に差配するこの屋敷が安全と判断し、拠点を移したのだと思われる。
と、するとお嬢様の考えはピソ閥とはあくまで同盟相手とした戦略になるのだろうか。
なら今俺がすべきことは……。
「婚姻候補の件をお嬢様と話す前にもう一度整理しなおすことだな」
ピソ家の後見を受けない選択肢を取るとなると、現状のルクレティウス家は非常に危ない状態にあると言って過言ではない。
新進気鋭の商会のみならず、一部の機を見るに敏な官僚から羨望のまなざしを向けられているデキムス学校(ガンギマリ梁山泊を外の人はそう呼んでるらしい)を擁するザギッタ家。
そんな有力家を被保護者として抱えながら、当主と跡取りを同時に失い、直系はルクレティアお嬢様のみというのが今のルクレティウス家。
それはローマの上流階級たちから見れば、スブッラ地区の路地裏に財宝がみっちり詰まったむき出しの宝石箱が放置されているようなものだ。
ルクレティウス家を手に入れることができれば、莫大な財を生み出す商家、最新学問を通じた優秀な財務官や軍人層の人脈、その両方が手に入るのだ。
合法非合法、あらゆる手段を使ってルクレティウス家を乗っ取ろうと食指を伸ばしてくること請け合いだ。
そして今になってそれをしてくるような家に、これから起こるだろうドミティアヌス殿下擁立のための政治工作をピソ家と共に行う力があるとは到底思えなかった。
何もしないならまだいい方で、足を引っ張る未来しか見えない。
そうなる前に、以前挙がった候補からお嬢様の婿をさっさと決定してしまう必要がある。
まずは若様が候補に挙げていた……セクストゥス・ユリウス・フロンティヌスの息子。あの時点でルクレティウス家よりもはるかに格上、政治工作においても、ピソ家には及ばないが十分な力があるだろうと思われる候補だったはずだ。
あとは俺が候補に出したプッさんの甥である小プリニウスさんやドミティアヌス殿下の息子であるコルブロ君も候補に挙がるだろう。
あの話の後ちょいちょい小プリニウスさんやコルブロ君と話す機会もあったので聞いてみたことがあるが、トラヤヌス様同様にお嬢様の金的を目撃していたらしい小プリニウスさんは全力涙目で『勘弁してください』と言っていたが、金的を知らないコルブロ君はなんか結構脈ありな感じだった。
ただ俺としては非常に悩ましいところだが、皇族が主家筋になるのはスローライフが確実に遠のくのでめっちゃ嫌なので、小プリニウスさんに泣いてもらう方が良い。
だって別にプッさんは親戚になろうがならまいが今まで通りこの邸宅に入り浸るだろうし。
「うん、小プリニウスさんで決まりだな」
俺は水面から顔を出し、小プリニウスさんとルクレティアお嬢様が結婚した未来を思い描く。
入り浸るプッさん。こっそり俺の目を盗んで臨床試験前のコルチゾンの自己判断投与するプッさん。
ブチ切れる俺、懇々と説教する小プリニウスさんと嬢様。
……なかなかいい光景なのではないだろうか。
「そろそろお嬢様の部屋に向かうか」
俺はそう呟き、水風呂から上がるとルシアの用意してくれた下ろしたてのトゥニカに着替えて、中庭へと足を進めた。




