135話 疫病終息宣言と政治の季節[2/2]
ドミティアヌス殿下による衝撃の民会提案予告から一日。
ローマ中が疫病明けのルディ・ロマーニの熱狂に包まれる中、ここユーピテル神殿では元老院議員を始めとするローマ中枢の者たちがユピテルの饗宴に興じている。
この饗宴では例年であれば和やかな雰囲気の中で政治闘争が繰り広げられるのだが……今日の饗宴は雰囲気が異なっていた。
ダキア遠征のための下準備や法人制度が上手くまとまった功績という名目で、カピトリヌス三神像席の目の前、皇族が寝そべる席に私は招かれており……そんな私へ、他のテーブルの元老院議員の視線が一身に刺さっている。
そして、私はこの席に決死の覚悟で挑んでいた。
「此度の饗宴の料理はどれも見たことのない物ばかりですな」
テーブルの上には、豚の乳房の香草素焼きやウツボなどの見慣れた料理のほかに、火が通っているのにピンク色の肉や周りが真っ黒になっているのに焦げてはなさそうな不思議な肉、野菜と練りこまれた白いソースがかけられたエビの揚げ物など、見たことのない料理も多く並んでいた。
「そうだろうそうだろう。ピソよ、これの一部は今をときめくルシアが考案した料理でな」
「ほう、あの高潔な少女ルシアがですか」
「まったく、デキムスと良い娘と良い、我々の知らぬものを次々に教えてくれるな、あの親子は。そうは思わんかピソよ?」
「そのデキムス殿のことですが……」
「ん? なんだ?」
「デキムス殿に護民官職権をという昨日の演説での提案……流石に早急過ぎはしませんか?」
見慣れない料理への賛辞もそこそこに、左手で胸を押さえて動悸をごまかしながら、私はドミティアヌス殿下に対して切り出した。
「なんだ。デキムスに護民官職権を与えることがそんなに不味いか?」
普段であれば苦言の一言であからさまに不機嫌になるドミティアヌス殿下だが、疫病以降高まり続ける名声によって余裕があるのか、私の言葉に対して気を悪くすることもなく耳を傾けてきた。
その様子に少し安心しつつも、目的のためには踏み込まなければいけないと左拳で胸を圧迫しつつ私は続ける。
「デキムス殿の此度の活躍、そして今後またあの疫病があったときに、より被害を抑えるためには確かに強権も必要でしょう。しかし、しかしです。そのために護民官職権を用いるのは、あまりにも劇薬過ぎます」
そう、ローマにとって護民官職権と言うのは、護民官職そのものよりも重要な意味を持つ。
護民官職であれば実質的にはほとんどの権限は形骸化している。
その理由は簡単だ。
護民官は任期が1年であり、それ故皇帝がもつ実質的に永年の護民官職権には劣後するからだ。
身体不可侵権は任期が切れれば効力を失い、無茶をすれば1年後には暗殺や処刑の憂き目にあう。
拒否権も同等の権利を皇帝が持っており、皇帝の許容範囲内での一時的な行使しか近年は行われていない。
民会招集権にしても、今後のキャリアを考えれば元老院の決議に基づく追認としての儀礼的役割でしかない。
しかし護民官職権となると話は変わってくる。
形式上護民官職権は護民官職と同様に有効な期間は1年となるが、これは元老院がはく奪をしない限り自動的に延長がされる。
つまり元老院の過半を敵に回さない限り拒否権と身体不可侵権を持ち続けられるのだ。
それはこの職権を持つものが認めない政策が実行出来ないことを意味する。
そして民会招集権。
永年の身体不可侵権と拒否権があるならば元老院内での今後のキャリアなど考慮しなくてよい。
それは実質的に立法権を持つことを意味する。
これらの権力は皇帝が持っていたからこそ、力の均衡がとれていた。
しかしその絶大な力を持つ先が一つ増えたら?
力の均衡は完全に崩れ去り、デキムスが持つ権力の獲得レースが始まることだろう。
いくら今後の疫病への対応だとしても、到底政治的な力量が不明な人物に付与してよいものではない。
最悪の場合、『デキムスを副帝へ』という意見さえ出てきかねないのがこの護民官職権なのだ。
「まあ護民官職権とは皇帝権力を構成する四職権の中でもアウグストゥス帝が最も重要視したものだからな。ピソの懸念はもっともだ」
「私もティトゥスと同じ意見だな。護民官職権という言葉が出た時は驚いたぞドミティアヌスよ」
私の言葉に続くように、殿下の隣に寝そべっているティトゥス殿下とウェスパシアヌス陛下が援護をしてくれた。
少し面白そうな口調なのが気になるが、援護はありがたい。
「先の内戦の時、ローマに凱旋した私はお前に『お前が誰かを皇帝に指名していないのが意外だ』と言ったことがあったが、本当に皇帝が持つ職権を付与しようとする奴があるか」
うすうす感じてはいたが、やはり護民官職権の件はドミティアヌス殿下の独断専行のようだ。
「ドミティアヌス殿下、物事には順序という物がございます。どうかここは、考え直してはいただけませんか?」
「ピソはこう言ってるが、お前はどう考えているのだ? ドミティアヌスよ」
「そうは言いますがな父上。物事の順序はただ則っていればよいと言うものではございますまい? 一部の元老院議員が囁いているような、黄金の指輪と財務官への推薦をほぼ同時にしようという動きの方が早急なように私は思えますが?」
「うっ」
ドミティアヌス殿下の反論に私は思わず言葉が詰まる。
解放奴隷や自由民から騎士階級、騎士階級から元老院階級への栄達は代を挟むのが通例だ。
デキムスは生粋の自由民でこそあるものの、数年前までは成金ですらない一介の薪行商だったという。
そんな者を一気に元老院階級へ遇するのは身分という面で見れば殿下の言う通りそちらの方が早急すぎるというのは一理ある。
そんな私の内心を見透かすように、ドミティアヌス殿下は私を見て続ける。
「護民官職権であれば護民官の様に翌年の元老院入りなどの権利を得ることもない。将来的にお前たち元老院議員が奴を騎士階級、そして元老院議員へと推す場合でも、護民官職権を用いて奴がきちんと政治的実績を上げてからのほうが穏当なのではないか?」
「うむ、ドミティアヌスの言い分も一理あるな。確かにデキムスは黄金の指輪を授与するだけの功績はあげた。ゆくゆくは元老院議員資格を、と言うお前たち元老院議員の動きもまあいいだろう。しかし一気に、と言うのは身分秩序の軽重が問われるという物だろう」
「陛下、ですがそれで護民官職権をというのはあまりに極端ですぞっ!」
「まあピソが懸念している内容ももっともだな。それにデキムスにとっても、流石に皇帝と同じ職権を付与されるというのは心労が大きいだろう」
「ではこういうのはどうでしょうか父上。デキムスへ付与する職権としては護民官職権のうち、拒否権を除いて身体不可侵権と民会招集権に絞って付与するというのは?」
「まあ拒否権を外せば私が持つ執政官職権やプロコンスル上級命令権、皇帝裁判権は侵害されないな」
「今回の疫病終息への処遇としてはこの制限された護民官職権で報いたものとし、その後の公衆衛生法案の制定で功績を上げるごとにそれ相応の身分へと押し上げれば身分秩序の軽重も侵害しないだろう?」
拒否権がなければ護民官職権としての実権は大幅に削られる。
この妥協案であればあくまで立法のための職権として皇帝が持つ本来の護民官職権とは分けて考えることができるだろう。
法案制定の功績で騎士階級、元老院下級へと昇進するのであれば政治的実績という大義名分があるので身分秩序的にも問題はない。
「まあ、確かにそういうことであれば……」
「うむ! ではデキムスには拒否権を除く護民官職権の付与と言う形で民会へドミティアヌスが提案するということで良いな!?」
陛下がわざと大きな声で言うと、いつの間にか静まり返っていた饗宴に元老院議員たちの雑談が戻りだす。
「ピソよ、ドミティアヌスはこういうところがあるが、今後も元老院とのつなぎとしてよろしく頼むぞ」
その様子を見て同意と判断したのかウェスパシアヌス陛下は私の肩に手を置いてねぎらいの言葉をかけてきた。
「え、えぇ……それが私の務めですので」
陛下の言葉に同意しつつ、いつの間にか完全に皇室と元老院の折衝役に収まってしまったことに、私は今更ながら気が付く。
確かに皇室との関係改善は先の内戦以来、ピソ家の悲願ではあったが……。
その先にあるのがこんなに心臓に悪い日々だとは思ってなかった。
だが、とりあえずは危機は去ったとみて良いだろう。
元老院議員の内部でもデキムスをいきなり元老院階級にするのはどうかという声は確かにあったのだ。
そう思えば異例ともいえる皇帝と後継者以外への護民官職権の付与だが、拒否権が除かれたことにより、ゆっくりと昇進できる場を整えたという意味では良い落としどころに収まったのではないだろうか。
なにか見落としがあるような気がしないでもないが、もはや私の心臓はもう限界である。
立法権としては強力な権限を持ったままなので元老院階級以外にも、騎士階級による取り込みも活発になるだろう。
だがもう知らん。それは帝国の危機ではないし政治闘争の範疇だ。
デキムス殿をどの派閥が取り込むかなど、後のことは勝手にしろという気分だった。
「さあ、ピソよ。堅苦しい話はここまでだ。この肉を食え。ブリスケットと言うらしいぞ。牛の肉とは思えぬほどに柔らかいぞ」
ドミティアヌス殿下に勧められ、私は骨付きの肉を口に運ぶ。
肉汁が混ざった甘辛く芳醇な香りのソースが口の中一杯に広がり、おかげで少し胸の痛みが引いていくような気がした。
さーて同時刻のデキムスさんの様子はー?




