122話 こんにちは、死ね疫病!
今ローマに襲い掛かりつつあるローマ熱。
デキムスさんドミさんが昼下がり執務室に凸して来る直前まで、ディオスコリデス様と行っていたヒアリングでは、現在すでに罹患が発生している症例を見るに……最悪なことに熱帯熱マラリア。
その上、その時目にしていた別の資料は赤痢などの流行の気配すら示していた。
ディオスコリデス様からの情報によると、同様の熱帯熱マラリアや赤痢が複合的に流行したと思われる過去の大流行では罹患患者の死亡率は数割にも上ったという。
ローマにおいてはまさに神々の怒りの代表例と考えられており、政治変動すら伴う人の手にはどうにもできないもの。
それがローマ熱を始めとした疫病だった。
ルシアとコルブロ君の症状はデキムスさんとドミさんから聴取した情報から、二人とも下痢症状がなく、採血後の血液に観察の結果、マラリア原虫が発見された。
先行症例から考えて、ほぼ間違いなく熱帯熱マラリアの方とみて、間違いない。
致死率数割の熱帯熱マラリア。
「ローマ熱……いや、赤痢やマラリアへの対処方法は実質的に存在しなかった」
ルシアとコルブロ君が発病した翌日の早朝、朝日が差し込む医学部エリア学部長執務室。
そこの来客用の椅子に座りながら焦燥しきった顔でうなだれているデキムスさんとドミさんの二人に、ディオスコリデス様はローマ熱の現状を淡々と説明する。
「では……コルブロは……!」
「ルシアは助からないかもしれないと!?」
焦燥から絶望の色に瞳が変わる二人に対し、ディオスコリデス様は次の言葉を紡ごうとする。
しかし、そこは俺に言わせてほしい。
そう思った俺はディオスコリデス様の言葉にかぶせる。
「――そう、1か月前までは」
二人を見つめ、眼力を込めて。
多分擬音で『ギュッ』とか音が出てると思う。
◇
はい脳内リスナーのみんなー! おはこんばんちわ!
新婚生活までにローマ疫病絶対殺すマン、シリアスなんかぜったい認めんぞシリアルにしてやるがモットーのルシウスです。
というわけでですね、無謀にも俺の手のひらほぼど真ん中の人 (ルシア)に手を出しやがろうした疫病のクソ野郎をですね。
今回はボッコボコのギッタギタにしようとぉー思います!
時はちょっとさかのぼって、それぞれの家で治療するのは非効率なのでルシアとコルブロ君を黄金宮殿大学附属病院エリアの特別個室に搬送した直後あたり。
顕微鏡検査の結果、ルシアとコルブロ君の血液内からマラリア原虫が発見されたところからです。
いやぁー治療法がない時代と思って余裕ぶっこいで暴れまわってくださりやがってますねマラリア原虫君。
もうイキり倒しの傲慢の極みです。
馬鹿め! お前の墓場はここです。
この時のために(?)ディオスコリデス様にローマ熱対応セットを投げておいたのだ。
実はデキムスさんとドミさんが乱入して来る直前。
俺が見ていたのはディオスコリデス様によって既に治験が開始されていた『クロロキンとピリメタミン投与』の比較資料だった。
そう、熱帯熱マラリアと特定しているということは既に患者がいるということ。
そして既にクロロキンとピリメタミンのどちらが効くかも検証済みということだ。
ちなみにコークス副産物として合成染料産業が立ち上がるレベルで芳香族化合物も北ポンペイには豊富にあるため、原料量産についても抜かりはない。
というわけで熱帯性マラリア! お前の死はこれだ!
デデドン『クロロキンの経鼻胃管投与』!
マラリア原虫は赤血球を破壊して栄養にしながら増殖する。
この赤血球の破壊によって重症化するのがマラリアなのだが、この時マラリア原虫自体も『ヘム』と呼ばれる有害物質に襲われかける。
もちろんマラリア原虫もそこは対応する仕組みがあるのだが、クロロキンはこの『ヘム』の無毒化を阻害することによって、マラリア原虫の食事そのものをマラリア原虫にとっての『毒』にすることによってマラリア原虫を駆除するという物になる。
ちなみこのクロロキンそのものは春ごろには既に『ローマ熱の治療セット』としてデキムスさん経由でディオスコリデス様に情報を投げているので黄金宮殿大学内の実験棟での生産はもちろんのこと、北ポンペイでの量産も間もなく始まる見込みだ。
そしてこれらの投与は、闘技場の落成記念式典の間に着手したSBRゴムの合成により作った栄養チューブにより経鼻胃管投与で行う。
意外かもしれないがエタノールとベンゼンを主原料に、製鉄業で出る非鉄金属を触媒にすれば出来ちゃうんだよね、合成ゴム。
医療用にするにはめっちゃ煮沸洗浄とか必要だけど。
そんなわけで経鼻胃管による、薬剤の直接投与。
ここまでは既にディオスコリデス様によって行われた治験によって効果が検証できており、死亡率はほぼ九割減となっている。
死者のうちの半分は資料に記載されているクロロキン投与量から推測するにクロロキン過剰投与による致死なのでそれぞ除けばほぼ回復率は9割後半。
ちなみにピリメタミン投与患者の死亡率は微減。
たしか作用機序は同じはずなんだけど……クロロキンの方が合成難易度は少ないし、北ポンペイにはピリメタミン製造を中止してクロロキンに傾注するように指示出した方が良いかもしれない。
そんなことを考えながら、チューブにはディオスコリデス様検証時のクロロキン投与だけではなく、ここに追加でルシアとコルブロ君への治療では麦の蜜を原料にした経口補水液の定期投与も行う。
これによってマラリア原虫によって引き起こされる低血糖を防止する。
本当はブドウ糖単離からのブドウ糖点滴液まで行きたかったが、一部の製剤以外は衛生面の確保ができないので仕方がない。
あとは並行して血小板減少症に備えたABO式血液適合も実施する。
輸血対象は今黄金宮殿大学にいる千人規模の学生と学者全員。
調査方法は他人同士の血漿と赤血球の凝集反応を物理的に顕微鏡で観察するというマンパワーだよりの調査方法だが、この調査にも学者全員を総動員する。
採血にも顕微鏡観察作業にも拒否権はない。たまには役に立てお前ら。
そんな感じの何重にも対策を講じ、ディオスコリデス様によって二人への挿管を行ってクロロキン投与と、経口補水液の定期投与を実施したのが、夕方少し前のこと。
そして時間は戻って今。発症確認の翌日となった早朝の執務室で、俺は脳内リスナーにした説明を少し簡略化しつつ、ディオスコリデス様と一緒にデキムスさんとドミさんへの説明を行う。
「じゃ、じゃあ……」
「回復するということで良いのだな!? もう安心で、良いのだな!?」
「クロロキン投与によって容体は安定に向かっています。今までの症例と同じ程度であれば、早ければ明日には回復に向かうかと」
「万一重症化した際に備えて、僕の方でも奥の手(輸血)の準備もしています」
俺の言葉に、二人は一気に脱力する。
緊張の糸が途切れたらしい。
そして、そうなると余計なことを思いつくのがドミさんだったりするわけで。
「ちなみにルシウス、この薬、もっと投与量を増やせば早く治るのではないか?」
「それやると確実に死にますんで殺したいならどうぞ。コルブロ殿下の方だけにしてくださいね?」
クロロキンは治療域と中毒域がマジで近いのでそれをやると死ぬ。
というかディオスコリデス様による治験時に注意を聞かなかった医者がそれをやらかして何人か死んでいる。
そしてそれを防ぐため&衛生管理のために、徹夜で二人の病室で監視をした、徹夜明けなのが今の俺である。
大学の学者学生を総動員した輸血候補者探しの適合試験を並行した上でだ。
ほぼ確実に回復が見込める治療を実施中とはいえ、アホの一部は追加の感染症防止のために部屋に入る時に義務付けている『手首までの消毒液によるアルコール殺菌』を省略しようとするアホもいたりしたので、そういうアホにアンフォラごと消毒液をぶっかける程度には気が立っていた。
その上でのドミさんの思いつきだったので、俺は剣呑な雰囲気でドミさんに対して言葉で刺してしまった。
素人は黙ってろと言わなかっただけ褒めてほしい。
「悪かった! 軽率な発言だった撤回する!」
べったりと隈がついているだろう俺の視線と刺す言葉にドミさんは発言を撤回する。
「少年ルシウス、ドミティアヌス殿下も悪気があっていったわけじゃないわけだし落ち着いて、な」
「徹夜作業で気が立ってました……ドミティアヌス殿下、ご無礼をお許しください」
「う、うむ……妾のルシアも同時に倒れたのだ……そうなっても仕方あるまい」
「少年ルシウスよ、一度仮眠を取ったらどうだ? 二人の病室の監視は私が引き継ごう」
「そうですね……」
正直脳をフル回転させ過ぎて頭が痛い。
「じゃあ、お言葉に甘えて午後まで休みます」
俺はディオスコリデス様の提案に従い、職員用の仮眠室で仮眠することにする。
「デキムスさん、ドミティアヌス殿下。面会は二人の容態が回復した後で。いいですね?」
「うん、わかった」
「従おう」
不確定要素を減らすために面会謝絶状態の維持だけをとりあえず確保した上で、俺はディオスコリデス様の執務室から退出して、そのまま仮眠室に向かう。
俺自身が思っていたよりも体は限界だったようで、ベッドに入った途端、寝落ちした。
……そして昼過ぎに俺が起きた時、病棟は『ルシア嬢がいなくなった』と大騒ぎになっていた。
■マラリアとキニーネ以降の近代治療薬
キニーネの登場以降、化学者たちは合成によりキニーネを作ろうと心血を注いできた。
その結果アゾ染料が生まれたりなどの副次発明もあったりしたりとかの紆余曲折の末に生まれたのがクロロキン。
本編でルシウスが説明してる通り、クロロキンは耐性獲得前のマラリア原虫であれば絶大な効果を持つ。
近代マラリア治療の代表的な薬剤。
なおもう一つの薬剤としてピリメタミンが効果がないと言っているが、クロロキンがヘム重合の阻害によりマラリア原虫を『殺す』のに対し、ピリメタミンはマラリアが増えるための餌である『葉酸』の活性化阻害薬、つまりマラリア原虫を増やすのを阻害することで治療を行うというルートなのでそもそも作用機序が異なる。
そしてピリメタミンは活性化阻害だけではクロロキンと比較すると治療効果は薄いので、葉酸生成そのものを阻害するスルファドキシンと合わせて使う(SP合剤)ことによりマラリア原虫をいわゆる『餓死』させることで初めて効果が出る。
なお、現代においてはどちらも耐性原虫が出現により、一部地域を除いて第一選択薬としては一線からは退いている。
■余談:日本におけるクロロキン
クロロキンは日本においては(悪い意味で)行政史に残る薬品となっている。
具体的にはクロロキン薬害事件と呼ばれるもので、国外で長期服用の副作用による網膜毒性が確認されていたにも関わらず、長期使用の規制を適切に行わなかったことにより多数の薬害が発生。
この訴訟では最高裁により「行政の不作為に関する基準」が示され、この判例は以後の薬害に関する国賠に関しての重要な指針となった。




