121話 ローマ熱
百日に及ぶ加減を知らないフラウィウス円形闘技場の落成記念式典がようやくその幕を閉じた西暦80年7月。
ドミさんの世紀末戦車競技を没にするバーターとしてお披露目された試作鉄道はローマの上流階級たちの欲に火を付けた。
『これは金になる。我が一族の利権地域や、農園から港までの輸送路に敷設すればどれだけの利益が上がることか!』
『利用する人口もけた違いだろうこれは。それに金を出せば路線に名前ば残る。既にローマ内のこの最初の鉄道はドミティアヌス線とよばれているしな』
そんなわけで元老院階級や騎士階級を中心とするローマの上流階級たちによる、早速この鉄道の次なる路線、ローマ市外から各都市につながる鉄道敷設誘致の企みが、ひそかに蠢動しているらしい。(ドミさん経由ピソ様情報)
そして、いろんな欲望に飲まれたこの落成記念式典は、別の……望ましくない蠢動も生み出しつつあった。
現在俺は、デキムス学校の後継組織で帝都の学問の頂点として唐突に爆誕した皇帝直轄の学術機関『帝立黄金宮殿大学』の西側、ティトゥス浴場に面した医学部エリア、その学部長執務室でディオスコリデス様と顔を突き合わせて書類とにらめっこをしているところだった。
「うーん……これは……」
「どうだ、少年ルシウス。これやはり相関関係にあると考えて良い物か……? それともまた疑似相関か?」
先月の末に正式に軍から黄金宮殿大学の医学薬学の転籍し、学部長となったディオスコリデス様は机一杯に広げた統計グラフの紙を指さしながら厳しい顔で俺に見解を問うてくる。
そこにはローマ熱の罹患患者が例年よりも早く増えつつある状況と、罹患患者の居住区が川岸や、フラウィウス円形闘技場近辺地域の上流階級エリアに集中していることを示す資料が並んでいた。
「……ローマ熱流行の兆しと、落成記念式典との関連、ですか」
「そうだ。例年、夏に流行する熱病ではあるが、今年の伸び率は異常だ。私は、この『ローマ熱の流行範囲』と、『落成式典の開催範囲と下水道の排水ルート』の間に、何らかの相関関係があるのではないかと疑っている。これが純粋な因果関係なのか、それとも疑似相関に過ぎないのか……少年ルシウスの見解を聞きたい」
「論じるまでもなく有意な相関関係かと思います」
俺はグラフを見ながら即答する。
「やはり友ルシウスもそういう見解か、とすると原因は……」
「「下水環境の悪化で蚊が増殖した」」
俺とディオスコリデス様の声が被る。
流石は一世紀を代表する軍医。
俺がデキムスさんに投げたローマ熱対応キットの内容を正しく理解しているようだった。
……ローマ熱、高熱にうなされ、解熱と再発熱を繰り返すこの熱病の現代での病名は……おそらくマラリアだ。
そしてマラリアの原因はマラリア原虫で、感染経路は中間宿主である蚊を介した感染。
つまり蚊の好む環境ができることは、マラリアの流行を意味する。
しかもディオスコリデス様が報告してきた症状から推測するに、比較的軽症で済む三日熱マラリアではなく、重症化しやすい熱帯熱マラリア。
「……ディオスコリデス様、式典期間中、ウェスパシアヌス陛下が市民に振る舞った生贄の家畜の数って、大体どれくらいでしたっけ?」
「学校内の財務官に聞いた話では、百日間で延べ九千頭以上だ。さらに、それに連動して元老院議員や有力貴族たちが、己の被保護者や市民たちに私的な大盤振る舞いを行った。実際にはその倍以上の家畜や食料が、この数ヶ月でローマ市内に持ち込まれ、消費されたと見ていいだろう」
「やっぱり……」
牛や豚、羊などの家畜が大量に殺されれば、必然的に大量の血や臓物、汚物が排泄される。
いかにローマが誇る高度な下水道があるとはいえ、短期間にこれほどの有機物特定の経路へ流し込まれれば、下水の環境は悪化し、汚水が停滞する場所ができる。
さらに、ローマの技術の粋を尽くして作られたフラウィウス円形闘技場では模擬海鮮のような、アリーナに大量の水を流し込んだ催し物も行われている。
当然ながら排水機構もきちんと備わっているが、連日の稼働で池の様になっている部分は、恐らくあちらこちらにあるだろう。
有機物で富栄養化した水たまり。
夏に差し掛かりあがる気温。
「ローマ熱……マラリアを運んでくる蚊にとって、これ以上ないほどの絶好の環境がそのエリアです。蚊の繁殖エリアと推定される場所の近くで罹患が増えているのは、明らかな相関と言うほかありません」
「目に見えぬほど小さな虫を蚊が運んでくる、か。……確かに罹患患者の血液を顕微鏡で観察すると、少年ルシウスが描いたものに似た、悍ましい形の生物がいた。そしてそれは、健康な者の血液には居ない……あれがローマ熱の正体なのか……」
デキムスさん経由でディオスコリデス様に雑に投げられた『ローマ熱の治療セット』。
それをディオスコリデス様は迅速に検証を行い、黄金宮殿大学が発足する直前には、既にマラリア原虫の目視にも成功していた。
「一度悪化した都市の衛生環境は、いかに高度な上下水道機能を持っているローマと言えど、自然にはすぐ改善はできない。インフラとはそんなに万能なものではないのだ……」
統計をもとにローマ熱流行を確信したディオスコリデス様の目線は、既に流行をどう抑えるかという方に向いているようだった。
「何か流行を抑える手立てはないか、少年ルシウス」
ディオスコリデス様の声は、何か『いい案』を期待しているようだった。
しかし、ことマラリアについては現代においても流行の兆しが出てからの即効性の方策は少ない。
そのため俺は、予防措置という無駄な工数を切り捨て、治療効率化による死亡率抑制の方の案を出すことにする。
「媒介主の蚊を減らす以外に方法がないので、正直感染そのものを抑えることは難しいでしょう。治療によって重症化を抑える方法しか――」
バンッ!!!
「ル、ル、ルシウス!!!!」
しかし、その対応案の説明は、確認もノックもなしにデキムスさんが部屋のドアを乱暴に開けて転がり込んできたことによって中断された。
「おぉデキムス殿……どうされました?」
「またどこかでボヤ騒ぎでも起こった?」
「起きてるかもだけどそんなのは今はどうでもいいよ! ルシウス!! 今すぐ家に帰るよ! 早く!!」
普段の苦労人オーラ満載の雰囲気はどこへやら。
デキムスさんは額に汗をにじませ、髪を振り乱して取り乱して強引にお手の手を取ろうとする。
「ちょ!?」
「デキムス殿、どうされた? いつもの貴方らしくも――」
ドゴンッ!!!
そんなデキムスさんの様子に、落ち着かせようとデキムスさんに言葉を投げかけたディオスコリデス様の声がドアが蹴破られる音にかき消される。
「ルシウス! ルシ、ルシウス!! なんで見つけやすいところに居ないんだ! 早く来い!!」
現れたのは、ドミさん。
肩で息をしながら、俺を見つけるなり俺のもう片方の手をつかんできた。
「ドミティアヌス殿下! 申し訳ありませんが今は後にしていただけませんか!?」
そんなドミさんに、普段であればドミさんのこんな殺気だった気配に晒されれば一瞬で小動物化するデキムスさんが、何故か今は一歩も引かず、俺の腕を強く掴んで引っ張る。
「えぇいルシウスの手を離せデキムス! 事態は一刻を争うのだ!」
それに対抗するように、ドミさんも俺のもう片方の腕を両手で掴み力任せに引っ張ってくる。
「いだだだだだだ!?」
結果、なんかの故事の様に両腕を引っ張られる俺。
二人ともマジで余裕がないのか全力で引っ張ってくる。
「裂ける裂ける裂けるあ゛ーーー!?」
「デキムス殿! ドミティアヌス殿下! 落ち着かれよ!!」
そんな異様な様子に、この場で唯一冷静な人物であるディオスコリデス様が二人を止めに入ってくれた。
「焦っても状況が良くなることはありません! 二人ともルシウスに何の用があるのかまず説明されてはどうか!?」
大声を上げながら二人の間に入って二人をなだめてくれるディオスコリデス様。
その声に少し冷静になったのか、二人は一瞬だけ顔を見合わせ、ほぼ同時に、悲痛な声を張り上げた。
「――ルシアが!」「――コルブロが!」
「急にすごい熱を出して倒れたんだよ!!」
「突如として高熱を出し意識を失い昏睡状態なのだ!!」
熱病。高熱。意識混濁。
それは今まさにディオスコリデス様と対応策を議論していた、ローマ熱の症状そのものだった。




