118話 勝ち馬混沌暴れ馬[1/2]
夕闇が迫るローマの石畳を、落成式典を控えたフラウィウス円形闘技場に向かうために私を乗せた輿が静かに進んでいく。
「一体ローマはどこへ向かおうとしているのか……」
揺れる輿の中で、ローマ帝国を動かす中枢たる元老院議員である私、ルキウス・カルプルニウス・ピソは、誰に聞かれるでもなく、小さなぼやきを吐き出した。
今年のローマは、不安と興奮の入り交じった奇妙な雰囲気が町の中に充満していた。
何故? と原因を考えるならば、ローマの上層に位置するものは皆すぐに思い当たる単語は『ポンペイ』だ。
ヴェスヴィウス山噴火と『ポンペイ』の消滅という、神の怒りとしか思えぬ大災害による不安。
『ポンペイ産』としてヴェスヴィウス山噴火の前後からローマにあふれだす新しい品々、それに伴って生まれる新たな変化による興奮、神の祝福を受けているかのような変化。
そんな、神々は私たちを祝福しているのか、はたまた怒っているのかが分からぬこの混沌とした状況が、ローマの今。
その中心は、『ポンペイ』だった。
そして、その混沌たる激流に飲まれまいと足掻いているいる我がピソ家があがいている理由もまた、『ポンペイ』だ。
始まりは2年前、植民都市に張り巡らせた『種』のひとつから芽が出た時のことだ。
我がピソ家の分家筋の者が嫁いだポンペイの騎士階級、ルクレティウス家。
そのルクレティウス家の被保護者たるデキムス・ムニウス・サギッタという商人が甘味と化粧品をひっさげてローマに来た時が、今思えば始まりだったのだろう。
しかもこの商会が生み出す物品と、『100万セステルティウスの奴隷』というローマ市民好きしそうな物語に、あのプリニウスがご執心だという。
そしてそのサギッタ家の支援を通じて、ルクレティウス家もローマ進出を目論んでおり、その一手として、ルクレティウス家の家長マルクス殿は、我がピソ家へ長女ルクレティア嬢の養育を依頼してきた。
我がピソ家にしてみれば、そんな有力商人を捕まえてきたルクティウス家の世話を多少するだけで、ゆくゆくはプリニウスという皇室との関係改善の伝手が手に入るのだ。
ようやく見えてきたピソ家再興の兆しに内心、心が湧きたったのを覚えている。
そう、初めは緩やかな好機だったのだ。
それがおかしなことになったのは……そう、噴火の直後だ。
ヴェスヴィウス山の噴火、そして噴火がもたらした灰によって、『ポンペイ』は比喩ではなくそのままの意味で消滅。
そして、その灰からは、混沌が生まれた。
あの日を境としてローマへ、そして当家へ混沌が襲ってきたと言っても良い。
当家への混沌の波は、噴火の数週間後に襲ってきた。
運んできたのは、ヴェスヴィウスの噴火でほぼすべての家財……いや、それどころか長女以外の家族全員を失ったルクレティウス家。
ルクレティウス家唯一の生き残り、ルクレティア嬢から私へ先触れが来た時……私は家長としても、私人としても彼女を保護するための準備をするつもりだった。
彼女、ルクレティア嬢は我がピソ家にとっても皇室との関係改善の一手、そうでなくとも、道義的にも未曾有の災害で傷ついた家への支援は庇護者の勤めでもある。
私の差配によっては、彼女の氏族名も二重氏族名として受け入れる良人をあてがうことも可能だろう。
そう考えながら、彼女を向かい入れた時が、おそらく分岐点。
玄関で彼女、ルクレティア嬢を出迎えた時――なぜかドミティアヌス殿下がいた。
そこからは……思い出すだけでも背筋が凍る。
四皇帝の年、若き日の失敗というにはいささか専横極まる振る舞いによって政治から遠ざけられていた、ドミティアヌス殿下。
去年の夏を境に、有限責任という概念と法人制度なる新たな商会の仕組みにより、急激に元老院の穏健派と接近していることは元老院議員の間では周知の事実だ。
元老院議員内での賛同の気運作りには私も協力をしたし、ルクレティウスの被保護者であるデキムス商会、つまりはサギッタ家のフランチャイズ事業なる仕組みへの株式という新たな概念による出資あっせんなどでも多少の関与は行った。
しかしまだ関係性と言えばそれだけで、唐突に我が家に来訪するような関係ではない、なかったのだ。
だが、ドミティアヌス殿下はまるで盟友の家に上がるかのように我が家に上がられ……帝位獲得のための支援を要請してきた。
語られる内容はまるで夢物語のような、元老院階級への莫大な土産付き。
話しだけならば空手形と考え、含みを持たせて場をしのいだろうが、殿下は現物を持ってきた。
パピルスの数分の一の値段で流通が可能な『ルクレティウス紙』、その紙を使って情報をローマ津々浦々に行き渡らせることができるであろう『活版印刷』、そして……あの悍ましい匂いと共にすべてを打ち砕く……『銃』。
最後の品で、殿下はダキアを征服すると言い放った。
そしてその隣では、私が庇護すると……せめて穏やかな人生を送らせてあげようと思っていた少女――ルクレティア嬢が私にドミティアヌス殿下への支持を迫っていた。
何が何だか訳が分からなかった。
最後の品さえなければ、私は一も二もなく支持を確約していただろう。
何せこれは危険な陰謀ではない。
殿下は、正面からウェスパシアヌス帝とティトゥス殿下を説得すると言った。
そして元老院階級へは、今後莫大な利益が得られることが確定している英知の品の利権。
外征のことさえなければ、私は同意していた。
だが、一点……外征が殿下の支持を表明する妨げになった。
ダキア。
あの地のことを記載した書を、私は持っていた。
あの地の森は深く、有力部族の支配地域は山岳地帯で、主要な街道は狭い。そして近年では部族が統一されつつあるという情報も一部ではある。
つまりは、小競り合いではすまず、大規模な遠征……クラディウス帝のブリタンニア遠征にも匹敵する規模となるだろう。
軍歴の少ない殿下の指揮でそのような大規模な遠征が成功するとは、私の常識では思えなかった。
そのため私は言いよどんでしまったのだ。
それが冥府の扉で遊んでいるようなものとも知らずに。
私がダキア遠征に難色を示した瞬間、ドミティアヌス殿下は何の感慨もなく、殿下は私の庭に『銃』を放った。
雷鳴がとどろき、硫黄の香りが鼻をつく。
私以外……殿下、ルクレティア嬢、奴隷の少年の視線が向く先に私も視線を向けると、石像が粉々になっていた。
その瞬間、私は自らの手が震えているのに気が付いた。
視線を三人の方に戻すと、彼らの視線は私に、そして私を通して元老院階級へ向けられているように思えた。
そう、あの打診は……打診ではなく最後通牒だったのだ。
『私の味方にならぬなら次は貴様らだ』と、殿下の目はそう言っていた。
その圧倒的な暴力と破壊力を前に、私は殿下の手を握りしめて懇願のようになるのを憚ることもなく殿下擁立の陰謀への加担と、元老院の説得を申し出ざるを得なかった。
そこから私は陰謀の中心人物となってしまった。
私のネアポリスにある別荘にポンペイの有力者を集め、殿下は彼らの忠誠を誓わせた。
ポンペイの一部の有力者の間ではネロ帝の時になぞらえて『ピソの陰謀』などと呼んでいるらしい。縁起が悪いからやめて欲しい。
大体、ポンペイの方は私は何もしてない。
……私が動いたのは主に元老院階級の味方づくりだ。
私は法人制度と新たな産物を結び付け、新たな『高貴な役割』として元老院議員の賛同者を募った。
奴隷や被保護者という手数に縛られていた元老院議員たちが私の提案に乗ってくるのにはさほど時間はかからなかった。
私を含む彼らの潤沢な資金はサギッタ家が差配する産業や殿下肝入りの製紙、出版、染料、鉄工、蒸留酒産業に流れ込み、たちどころに利益の報告が上がるや否や、私に接触してくる元老院議員も急増した。
我々は腐敗を防ぐという名目、そして何より帝国を差配するものとして公平を保つための制限として今までは商売に関与することができなかった。
それこそが高貴な者の立ち位置と言ってはいるものの、それによって騎士階級の台頭を許したことにもどかしさを抱えている者も少なくない。
しかし、この有限責任制度と法人は新しい概念故、元老院議員による出資制限はない。
むしろ、今年に入ってデキムス商会の重鎮、ウンブリキウスの提言により『投資信託』なる制度が成立し、元老院議員が商売への関与を制限する理由である『出資先の特定の商人への利益供与』が仕組み上難しくなった途端、ストア派の議員でさえ『勃興する産業の最前線を高貴な者の義務として支援することは元老院階級の義務である』と制度に賛同し始めた。
「――ご主人様。フラウィウス円形闘技場に到着いたしました」
「……あ、あぁ」
護衛の奴隷の声に、私は思索に耽っている間にフラウィウス円形闘技場に着いたことに気が付く。
そのまま私は輿を降り、頭は思索に耽ったままフラウィウス円形闘技場に設けられた元老院階級用の貴賓席へと続く通路を進む。




