肉吊り用のフック
意識を取り戻したとき、最初に感じたのは腕の付け根の痛みだった。カンパニーに施される痛覚の鈍化を無視する痛みは紫苑自身の重みがもたらしたものだ。腕が真上に伸ばされて、フックに結ばれて動かせなかった。イタリア系マフィアと精肉業界のあいだには切っても切れない関係があり、いくつもの映画でマフィアたちがあわれな犠牲者を肉を吊るためのフックに吊るして、さんざん拷問するシーンがある。コックの姿をした牛が自分の同胞をステーキとして焼く狂気のポスターに見守られながら、マフィアの組員が電気ショックとアイスピックで犠牲者を痛めつける。まさか、自分がそうなるとは紫苑も予想はしていなかった。
「目が覚めたか?」
見ると、扇が同じようにフックから吊るされていた。紫苑と同じ痛みを覚えているはずだが、やせ我慢をして、涼しい顔をしている。
「痛み止めが効いているから、銃創の痛みはそうでもないはずだ」
「わたし……あなたのところへ?」
「部屋の前で死にそうになっていた。医者――というより、医者みたいなやつに見せたんだが、御覧の通り、マフィアに捕まった」
「そう……迷惑をかけた。ごめんなさい」
「謝ることはない。おれたちの目的は一致している。カンパニーを潰す」
「……わたし、夢を見ていた」
「寝言のことなら気にするな」
「寝言? わたし、寝言を言っていたの?」
「気にするなと言っただろう?」
「いえ。気になる。わたし、何を――」
「よくは分からないが、みずき、という名前と、それにペスカトーレについて、もごもごよく分からないことを。だが……幸せそうだった」
「……精肉工場のフックに吊るされている状態ほど、夢について語るのに向いていない場所はないわ」
「バッテリーに生きたまま繋げられれば、現実から逃げて、夢のことしか考えなくなる。それより、ひとつ、ききたい。なぜ、マフィアともめた?」
「いきなり撃たれた。ジュセッペに。ジュセッペはわたしが住んでいた店の店主で、殺し屋もしてる」
「カンパニーに弾を命中させるんだから、相当な腕前だな」
「そうね……」
「あまり深刻に考えるな。イタリア系マフィアってのはそういうやつらだ。誰かを殺させるとき、そいつの一番の親友に殺させる」
「そう、だ。わたし、マークのことを――」
「マーク?」
「夢で、それは脱走するときの夢なんだけど、漢字のホログラムが出てきて、そのマークを思い出しながら書いていた。それを見られたら、いきなり撃たれた」
「くそっ。腕が痛い。だが、前進だな。マフィアどももセカンド・カンパニーに絡んでいた。ヴァレンティン・ロドフはあちこちに声をかけたというが、マフィアもそれに乗ったんだ」
「正確に言うと、わしだけが乗ったんだ」
紫苑はやってくるのが、サルヴァトーレ・ガローニのほうだと思っていた。だから、ドミニク・ロロッツァがやってきたときは意外に思った。ロロッツァはいつものダークスーツ姿で杖をつきながら、あらわれた。
「なぜ、あなたが――ぐっ!」
ロロッツァが小さなリモコンのようなもののボタンを押すと、ヤクザのナイトクラブで受けた痛みがそのまま蘇り、撃たれた傷まで暴れさせた。痛みから解放されると、扇も苦し気に息をついていた。あの装置は全てのカンパニーに通用するらしい。
「ヤクザどもはなかなかいいおもちゃをつくった。正直な話、お前らはまともに相手するのは難しい。しかし、これはなかなかいい出来だな」
紫苑は舌を巻いて叫び声を上げないよう歯を食いしばった。遊び半分にリモコンをいじるロロッツァに、かつて夢のことを教えてくれた、あの穏やかな口調の老人の姿はない。
「なぜ……」
「なぜ?」ロロッツァが首をふる。「逆にきくが、なぜわしは相談役を四十年も務めないといけない? なぜ、ずっと、ガローニのケツを追わないといけない? 長生きして分かったんだが、人間の欲は老化ぐらいでは擦り減らない。むしろ増幅する。たとえ、わしが明日死ぬと分かっていても、ガローニを追い落とす方法を考え続けただろうよ。そして、八十だ、八十になって、ようやくわしにも運が向いてきた。もうじき、あのバカ野郎がショットガンで頭を吹き飛ばされた写真が全国紙に載る。ジュセッペにやらせるつもりだ。ガローニはジュセッペがお前を撃ったのはヤクザどもがお前を手なずけたからだと信じ込んでいる。まあ、苦しみ抜かずに済むよう、一発で済ませるつもりだ。そのくらいのことはしてやるさ。長い付き合いだからな」
「そうか。お優しいことだな。だが、おれは違うぞ」
銃声がして、ロロッツァの股間から肉と骨片が飛び散って、しゃがれきった叫び声が上がった。ぐしゃぐしゃになった性器を手で押さえながら、転がる。ガローニと、それにショットガンを手にしたジュセッペが、暗がりからあらわれた。
「ロロッツァ。長い付き合いだから、教えてやろう。お前が四十年間相談役なのは、おれがそう望んだからだ。ついでにいえば、お前を信じたことは一度もない。おかしな真似したら、すぐ殺せるよう、相談役にしてそばに置いたんだ。それにジュセッペだが、ジュセッペがそこの小娘を撃ったのはお前の与太を信じたからじゃなくて、おれが命じたからだ。お前に信頼されるよう、撃てとな。だがな、ロロッツァ。お前みたいなゲスには分からないかもしれないが、おれは未成年を殺したことがないのが自慢なんだ。この仕事についてると、何かルールを設けないといけない」
「くたばっちまえ!」
ジュセッペはそれを無視して、ロロッツァをまたぐと、紫苑と扇をフックにぶらさげるロープを切った。ふたりともよろめくことなく着地ができたが、腕が五センチくらい伸びてしまった気がして、肩を押さえて、ぐるぐるまわしている。
「銀錠」ガローニが言った。「大昔の中国で使われていた銀貨みたいなもんだ。そっちのお嬢さんが書いたのは銀行業共同体のロゴマークだ」
つまり、カンパニーの秘密研究所は銀行業共同体にあるのか。扇が舌打ちする。エブロ・シティで最も安心して極秘の計画を進められる場所と言えば、確かにバンキーの地下貸金庫だ。あそこの地下には百階建てビルくらいの大きさの貸金庫スペースがある。どんな政府も銀行業共同体の預金口座や貸金庫の中身を照会することはできない。
「さあて、今度はお前の番だ。ジュセッペ、吊るせ」
今度はロロッツァが吊るされた。股からぼろきれのような肉が落ち、腕からはミシミシと音がした。ガローニはたっぷり三日間痛めつけるつもりで医者と輸血用の血液、それに必要なら臓器も調達できるよう、幹部のボビー・カルディロに命じていた。ガローニが胸倉をつかむと、ボタンが飛び散って、肋骨が浮いた骨と皮だけの胸があらわになる。
「可食部分がまったくない。もちろん食べるつもりなど、これっぽっちもないが、しかし、恥を知るべきだぞ、ロロッツァ。――さあ、そっちのふたりは出て行ってくれ。これからやることは企業秘密だ。それに――」ガローニが言った。「外に仲介業者が待っているぞ」
仲介業者、などというから、ソーセージの卸売り業者でもいるのかと思ったが、いたのはルクレツィアだった。マフィアが所有する精肉工場にスーツでやってきたキャリアウーマンは紫苑のほうをちらりと見てから、ドラム缶の上に置いたアタッシュケースを開けた。
「緊急ミッションが入りました。これが資料です」




