突堤
海は空のように青く、空は海のように青い。水平線がどこにあるのかは分からず、突堤は海ではなく、サファイアへと伸びているようだった。大人たちはコンクリートの巨大な塔や無数の地下空洞など用途不明の古いものが見つかると、とりあえず「戦時中につくられた」と説明した。戦時中には人間の建築物に対する考え方が異常な方向へ伸びて、その無駄とも思える情熱が奇妙な無用物を生み出すのだと。だが、実際には戦時中の人間はいかに効率よく人間その他構造物を破壊するかに血道を上げるから、奇妙な無用物を生み出す情熱を限られるリソースのなかで追求できるとは思えなかった。
紫苑たちが前にしている突堤はセメントでつくった道を伸ばせるだけ伸ばしたもので、その先端は収束して小さな点になっていた。おそらく突堤の先はとつぜんぶつりと切られて海へと落ち込んでいるのだろう。突堤の幅は瑞希が歩数で測ったところ、六メートル三十六センチ。どうしてセンチまで分かるのか怪しいが、瑞希はおれはプロだから分かるんだと言い張った。
「おいおい、紫苑さんよ。おれの歩数計測術を疑ってんのか?」
「信じられる材料が一切ないんだけど」
「人間の歩く幅ってのはよっぽど意識しないと変わったりはしない。おれの一歩は一メートルと六センチ。それが六歩とくりゃ、七メートル四十二センチで――あれ、おれさっき、何メートル何センチって言ったっけ?」
この突堤を征服するルールが町の若者たちのあいだでは存在していた。まず、電動自転車が禁止されている。車輪に帆をかけたもので挑戦することは禁止されているわけではないが、もし挑戦しようとしている人が本当の友達なら止めさせる、そうじゃないなら、そのまま行かせるという、これまた暗黙の了解があった。だから、自転車に大きな帆をかけて、突堤に挑戦すると言えば、青少年は自分たちの友情が本物かどうか知ることができるのだ。
紫苑は瑞希と一緒に並んで、突堤を走った。日焼け止めを念入りに縫って、暑いのは覚悟で長袖を着て、自転車をこぐと辛い涙が流れてきそうだ。水筒にはポカリスエットが入っていて、水分と一緒に紫苑を見限って逃げていったミネラルもちゃんと補給できた。もちろん、そのミネラルだって二時間もしないうちに彼女を見限る。
中学二年の夏休み。突堤には釣り人がいて、そのうち数人はクラスメートだった。
「あっちーなー!」
瑞希は後先考えず、上を裸になっていた。キャップだけはかぶっているが、このままいけば、全身水膨れだろう。そのことを何度か指摘するが、もうすっかり真っ黒に日焼けした瑞希は、おれは大丈夫、という根拠のない自信を言って、アドバイスを跳ねのける。サメ映画ではそうやって賢い忠告を無視したバカモノからサメに食べられるのだ。
ときどき、瑞希は欲望の命じるままに海に飛び込むことがあった。しかも、たいていは登れる階段があるかどうかを確かめずに飛び込んだ。似たようなことをしている男子たちが大勢いて、大声で「ヘルプ・ミー! プリーズ!」と叫んでいた。中学生くらいになると反抗期の真っ盛りで大人のやることはみな馬鹿げていて大人になんかなりたくない!、と考えるものだが、しかし、大人というのは中学生が考えるよりは割と賢い。そうした賢い人が縄梯子を入れた箱を百メートルにひとつ突堤に固定していた。これがなければ、ひと夏の思い出は壇ノ浦の戦いになっていたところだ。経費がかかり過ぎるから必要ないと文句を言うあまり賢くない大人を言い負かして、平家滅亡のリバイバルを防いでくれた大人に感謝の言葉をかけてもいいのだが、そこでお礼を素直に言えないのが中学生という生き物なのだ。
実は紫苑も服の下には水着を着ていた。もちろん、彼女はちゃんと登れる階段があることを確認してから、海に飛び込んだ。総じて賢い飛び込み選手には女子が多い。水中眼鏡で覗いた世界でソフトコーラルの赤さに感動して、突堤に戻り、シャワーノズルをはめたペットボトルの水で潮を洗い流す。何事においても、女子のほうが一枚上手だ。
彼らの真上では白くぎらつく太陽が渦を巻いている。影は短く詰まっていた。
「あつーい」
「言うな。言っても暑くなるだけだぞ」
「でも、暑いものは暑い」
「夏が暑いのはいいことなんだぞ。暑くなかったら、飢饉だぞ。氷河期がやってくるぞ」
「マンモス好きだからいい」
「マンモスのためだけに氷河期が来てもいいっての? 地球のために人間は滅んだほうがいいって言っちゃうゲームのラスボスみたいだな」
「ラスボス、みんな言葉話せないんだけど」
「バイオハザードばっかりやってるからだ」
空が空らしく雲の柱を立て始めた。空を支える白い綿がまぶしく光る。ペダルをこぐたびに紫苑と瑞希は陸から離れていく。ここは悔し気に食いしばられる唇やイライラと引っかかれるかさぶたとは無縁な世界だ。ときどき向こうから帰ってくる自転車に出くわすことがある。何かあるのかときくと、何もない、とそっけない返事。何もないことはないだろう。こんなに苦労して、何もないわけがない。それでも、太陽が西に傾いて、陸地からでは到底お目にかかれないバラ色の素晴らしい夕暮れを見たとき、紫苑は不安になった。こんなに素晴らしい景色を見てしまうと、この突堤の最後あるものが目減りするように素晴らしくなくなってしまうのではないかと。
「んなことあるわけないだろ」瑞希は言う。自信を込めて。「素晴らしいもんがある。なかったら、つくる!」
残照を残して日が沈むころにふたりは突堤の先に着いた。落ちた子どもたちが上がるための階段が脇についている。それだけだ。だが、星は町で見るよりもきれいだ。だが、紫苑は自分が、これが突堤の素晴らしいものだと自分に言いきかせようとしているのに気づいた。自分は何を求めていたのだろう? 到着と同時に上がる花火? 季節外れで場所外れなオーロラ? 現金一億円?
そんなことを考えている紫苑の横で、瑞希は大きなリュックサックからキャンプ用品らしいものを出していた。最初は小型コンロやガスボンベなど、いかにもキャンパーな感じだったが、そのうち白い陶器の皿やワイングラス、パリッと糊のきいたテーブルクロスなどを出してきた。最後にトマト缶とシーフードミックスの袋を取り出すと、ふたつのコンロを点火して、パスタをゆで、ソースを作り始めた。小さなウォークマンでグレン・ミラーの『ムーンライト・セレナーデ』を流しながら、残照よりもきれいな燃焼ガスがトマトをぶつぶつと沸かせる瑞希の姿にポカンとした。正直、普段の瑞希から、こんなふうに1930年代のビッグバンドの名曲をききながら、パスタをゆでるようなところはまったく見られないからだ。瑞希の料理というと、カルメ焼きくらいしか思い浮かばない。思わず、
「キザだね、きみは」というと、
「うるへー」と返ってきた。
ふたりで思わず、ぷっと笑った。
突堤の先で足をぶらぶらさせながら、ペスカトーレを食べ、ワイングラスを手に取る。満天の星を映したワインと思って飲んだものはちょっとお高い葡萄ジュースだった。
「意外性ってのが大事だろ?」
「自分で言ってれば世話ないよ。でも――うん。これ、素晴らしいと思う」
「だろ? でも、もっと面白くなるんじゃないかって気がするんだよ」
「あんまり欲張らないほうが――あれ? なんか、飛んでるよ」
紫苑が指差した先にあったのはロマンたっぷりの複葉機だった。複座式で後ろの席からはヴェールや裾が星の光で白く染められ、小さなオーロラのように忙しくはためいていた。複葉機は少し前にリゾート化された島から花嫁をさらって逃げる途中だった。その複葉機が突堤へと飛んできたのは、腹の虫の鳴き加減。
「いやあ、いいにおいがするなあって思ってたんだ」
ペスカトーレを少し分けてもらって、ほくほく顔のパイロットが言った。
「ごめんね。ふたりの時間のお邪魔をして」
花嫁が謝った。黄色い複葉機はサーカス団が巡業先の町にビラを撒いたりするときに使われるもので、他にはゴールデンレトリバーを後ろの席にのせて、パイロットはしゃがみこみ、『びっくり! 飛行機を操縦するわんこ!』のプログラムに使われたりするものだった。花嫁は自分を政略結婚の道具としてしか見ていない家族につい先ほど謀反をおこしたばかりで、恋人のパイロットと一緒にまだサーカスが人びとにとって耳目をひく町へと逃げるところだった。
「あ、まずい」
花嫁がそう言った先にはショットガンで武装した怒れる花婿とその家族たちがモーターボートで突っ走ってくるところだった。複葉機はすぐに発進し、排気口から赤い火花を散らしながら、水面から名残惜し気に離水して、一路南へと逃げていった。
いつの間にか、紫苑の手は瑞希の手に重なっていた。
それが優しく握りなおされる。
ふたりで星空を見上げていた。
そのはずなのに、いまの紫苑はオレンジ色の培養液のなかで呼吸マスクとケーブルにつながれて浮いていた。
紫苑だけではない。瑞希も、クラスのみなも培養水槽のなかにいた。脊椎に直結しているケーブルの古いソフトウェアからかすかにきこえるのは、破壊を望むしかできないみんなの哀しみ。
白衣を着た二人の男が紫苑を見上げている。どちらも美しい容貌をしている。
ひとりはヘスス・グアハルト。もうひとりは義眼の男。
「セカンドはうまく行くと思うかい?」義眼の男が言う。
「データ次第だ」グアハルトが言う。「蓄積された戦闘データがないうちに調整をすれば、これまでの苦労が水の泡になる」
「このあいだ運び込んだファーストは?」
「使い道はあるが、あのデータは不十分だ。それより、まだ生きているファーストがいる。そのデータを――」
ビデオが上書きされたように映像が変わる。血がしたたる刀を手にしていて、医者がひとり、喉を切り裂かれて倒れている。培養液の甘ったるいにおいがする。血がついた手術服を奪い取り、それを着て、そのまま、廊下へ逃げる。小さな舟のようなロゴマークで挟まれた緊急事態の漢字がホログラムで飛び交い、次々とドアにロックがかかっていく。来た道を戻る。
そこにみながいた。
必ず戻る。破壊しに戻る。だから――、




